山口市: 歴史
南北朝時代の延文5年/正平15年(1360年)に周防国を平定した大内弘世が大内氏の本拠地を吉敷郡御堀氷上(現在の山口市大内御堀)から現在の山口市中心部に移したのがルーツとされている。室町時代には大内館が築かれ、日明貿易が行われる。応仁の乱以後には京から乱を逃れてきた文化人を歓迎したので大内文化、「西の京」として栄え、戦国時代には大内義興、大内義隆が市街を整備し栄華を極めた。義興に庇護され後に京へ戻った室町幕府10代・12代将軍の足利義尹(義稙)、雪舟、フランシスコ・ザビエルなど、この町に縁のある人たちは多い。
天文21年12月9日(1552年12月24日)に山口の宣教師コスメ・デ・トルレスらが、司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスの祝を催した。このため、日本のクリスマスの発祥の地は山口である。
大内氏の滅亡後、毛利氏の支配のもとで山口奉行が置かれたため山口は防長二国における政治的中心地となった。関ヶ原の戦いののち、防長二国に減封された毛利輝元が萩に居城(萩城)を構えたため、山口の政治的中心性は一旦消滅することとなった。
江戸時代の間、吉敷毛利家の領地となり萩と三田尻(現在の防府市中心部)を結ぶ萩往還の中継地として栄えた。幕末になると、長州藩は藩庁を萩から山口へ移す(この経緯については山口移鎮の項目を参照)。山口に移された藩庁は山口政事堂と呼ばれ、長州藩における討幕運動の拠点となった。
明治に入ると廃藩置県が実施され、長州(山口)藩庁は山口県庁にそのまま移行した。一時期県庁移転が提起されたこともあったにもかかわらず、実現には至らなかった。山口は山口県成立から現在に至るまで、そのまま県政の中心地であり続けている。
一方、長州藩の藩校である明倫館は藩庁移転の際に私塾山口講堂(後に山口講習堂)を「山口明倫館」と改称(萩明倫館も存置)、旧制山口高などを経て、現在の山口大学へとつながっている。山口大学は1973年に平川へ移転完了したが、旧亀山校地(山口明倫館跡地)にはパークロード(県道203号)を中心に県立図書館・県立博物館・県立美術館が整備されている。
2024年、ニューヨーク・タイムズの『2024年に行くべき52カ所』に選ばれた。
山口市は、下記のように新設合併によって3度設置されている。前身の山口町については当該項目を参照。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、山口四十町 の区域をもって、吉敷郡山口町が発足する。
1905年(明治38年)4月1日 - 吉敷郡山口町及び上宇野令村が合併して、改めて吉敷郡山口町が発足する。
1915年(大正4年)7月1日 - 吉敷郡山口町及び下宇野令村が合併して、改めて吉敷郡山口町が発足する。
1929年(昭和4年)4月10日 - 吉敷郡山口町及び吉敷村が合併して、山口市が発足する。
1941年(昭和16年)4月1日 - 吉敷郡宮野村が山口市に編入する。
1944年(昭和19年)4月1日 - 山口市、吉敷郡大歳村、平川村、秋穂二島村、名田島村、陶村、小郡町、嘉川村、阿知須町及び佐山村が合併して、改めて山口市が発足する。
1947年(昭和22年)11月23日 - 吉敷郡阿知須町を分立する。
1949年(昭和24年)11月1日 - 吉敷郡小郡町を分立する。
1956年(昭和31年)11月3日 - 吉敷郡鋳銭司村を編入する。
1963年(昭和38年)5月1日 - 吉敷郡大内町を編入する。
2005年(平成17年)10月1日 - 山口市、吉敷郡小郡町、秋穂町、阿知須町及び佐波郡徳地町が合併して、改めて山口市が発足する。これにより、佐波郡及び吉敷郡が消滅。
2010年(平成22年)1月16日 - 阿武郡阿東町を編入する。
2005年10月1日の合併以降の住所表記は以下の通りとなる。
旧山口市は従前のとおり(但し、「大字」は冠称しない)。
旧5町は「○○郡××町△△」→「山口市××△△」とする(「大字」表記があった場合は削除する)。
-例-
山口県山口市亀山町 → 山口県山口市亀山町
山口県山口市大字仁保中郷 → 山口県山口市仁保中郷
山口県佐波郡徳地町大字堀1111番地の1 → 山口県山口市徳地堀1111番地1
山口県吉敷郡秋穂町東1111番地の1 → 山口県山口市秋穂東1111番地1
山口県吉敷郡小郡町大字下郷1111番地の1 → 山口県山口市小郡下郷1111番地1
山口県吉敷郡阿知須町1111番地の1 → 山口県山口市阿知須1111番地1
山口県阿武郡阿東町大字徳佐中1111番地の1 → 山口県山口市阿東徳佐中1111番地1
市外局番は、083。MAが複数あるため、旧徳地(0835区域)・阿知須(0836区域)両町域を除き、2013年12月1日から統一されている。
旧山口市域は、おもに083-9xxが使われている。