Heimatgeschichte · Anjo ·

安城市: 歴史

安城市: 歴史

=== 原始・古代 ===

現在の市域に陸地ができたのは、東部の沖積平野が完新世、中西部の台地は更新世最後に海面低下と台地の相対的な上昇が起きたことによる。古代の市域南部は、現在の油ヶ淵から桜井町付近まで深く海が入り込んでいた。このことは、堀内貝塚や東端貝塚の存在から確認することができる。また、矢作川は矢作古川が本筋であり、今日の西尾市とは陸続きになっていた。
現在の市域で、初めて人の行動が確認できるのは晩期旧石器時代で、市内15か所の遺跡から30点の有舌尖頭器が出土しているが、定住地というよりは狩猟の場となっていたと考えられている。晩期縄文時代の遺跡では、堀内貝塚や東端貝塚が確認されている。
弥生時代中期中葉頃から、豊田市の川原遺跡や西尾市の岡島遺跡など、矢作川流域に大規模な集落が見られるようになる。市内で集中的に遺跡が確認されているのは市域東部の沖積平野で、全長2.5キロメートル、幅0.75キロメートルの鹿乗川流域遺跡群と呼ばれる弥生時代後期から古墳時代前期にかけての遺跡群がある。また古墳時代には、市南東部に二子古墳や姫小川古墳などの大規模な古墳も建造され、それらを含めた19基の古墳が2.4キロメートルの範囲に集中する桜井古墳群がある。
律令制が敷かれると、市域は三河国の碧海郡となった。『和名類聚抄』には、碧海郡内には15 - 16の郷があったと記述されているが、そのうち桜井郷(桜井町)、小河郷(小川町)、大岡郷(大岡町)が、現在も地名として残っているため市内と比定されている。このほか、和志取郷なども市内と推定されている。また、別郷廃寺・寺領廃寺といった古代寺院の跡地も確認できる。

11世紀には、寄進地系荘園の志貴荘や碧海荘が誕生した。志貴荘は藤原氏や平氏などによって支配され、今日の安城市域のほとんどと碧南市・高浜市域や岡崎市域の一部を領地としていた。一方、碧海荘は豊田市南部から岡崎市西部・南部にかけて支配下に置き、一部が安城市域にかかっていたとみられている。
13世紀後半の鎌倉時代には、浄土真宗が伝えられた。矢作川流域には、円善の嫡子や弟子による和田門徒と呼ばれる集団が形成され、各地に道場を創設した。戦国時代には、蓮如の布教により本願寺派に改宗する寺院が急増し、信徒を増やした。
室町時代中期の1440年には、安祥城が畠山一族の和田親平によって築城されたが、1471年に松平信光が攻め取り、三男・親忠を置いた。親忠と長親・信忠の安祥松平家(徳川本家)3代に渡る経営により、加茂郡南部・額田郡・碧海郡・幡豆郡北部を支配権とする体制を確立した。安祥松平家時代の家臣は、安祥譜代と呼ばれ徳川最古参の家臣とされている。また、長親の子は福釜・桜井・藤井といった市域の村々を領した。この頃、松平親忠に臣従した玄海、大行日吉法印によって三河万歳が創作・伝承されている。1524年には清康は、安祥城から山中城そして岡崎城へ居城を移す。安祥城は、1540年に今川・松平連合軍と織田氏との争奪戦(安祥合戦)が繰り広げられた結果、織田氏の手に落城し、織田氏の三河進出の前線根拠地となったが、1549年に再び今川・松平によって奪取されている。そして、織田氏と徳川氏の間で清洲同盟が結ばれた後の1562年に廃城となったとされる。

1563年には、三河における浄土真宗3か寺のひとつだった本證寺が三河一向一揆の拠点となり徳川家康と戦い、家康を苦しめた。
江戸時代には、主に市域の東部は岡崎藩領、西部に刈谷藩領となった。残りは、旗本や御家人の知行地で、寺社領も一部あった。しかし、江戸時代を通して同じ領主に支配され続けた村はほとんどなく、領主の変動は激しかった。市域の村は東部の沖積平野に3分の2が集中し、台地上の村々は集落間の距離が長かった。また、1575年に今川家の家臣によって東海道と大浜街道の交点には大浜茶屋が設けられた。
碧海台地上には溜池が多く作られ、各地で新田開発が進んだ。1605年には矢作新川(現在の矢作川)の開削が行われて油ヶ淵が造成され、1666年に伏見屋新田が開発された。17世紀後半から18世紀にかけては綿作が発展した。
18世紀後半になると、寛政一揆の影響で、市域西部の8村が一部を除き刈谷藩から福島藩に領地替えされ、重原陣屋により支配された。18世紀末になると、東海道の人馬の往来が盛んになり、池鯉鮒宿や岡崎宿の助郷を担当している村々の負担が厳しくなった。

19世紀には、和泉村の豪農・都築弥厚によって、安城が原に矢作川から用水路を引いて土地を開墾する計画が立てられ幕府の許可を得て測量まで着手されたが、村々・領主の反対や都築の病死により頓挫した。同時期には、鹿乗川延長工事が竣工した。また、五箇野ヶ原の一部が検地されて石井新田が開発された。

1869年の版籍奉還により、重原藩や静岡藩が成立した。廃藩置県を経て1871年に額田県が成立し、市域の村々が初めて同じ支配下に入った。
明治時代に入ると、石井新田の岡本兵松が都築弥厚の計画を再び実現に向けて動き出した。一方で、阿弥陀堂村(現在の豊田市)の伊豫田與八郎が、現在の豊田市南部の低湿地の水害対策として矢作川から衣浦へ至る排水計画を練っていた。それぞれの計画は、愛知県の誕生した後の1875年に一本化。1878年1月には建設が着手され、4月に一部開通した。用水路は1881年に明治用水と命名された。明治用水は1885年までに280キロメートルが開削され、それまで生産性の低かった碧海台地が大きく開墾されることとなった。
また、1889年には東海道本線の岡崎駅と刈谷駅の中間に位置した安城村内に安城駅が誘致され、駅前集落が形成された。安城駅は、近隣の箕輪村や榎前村などと道路で結ばれ、それまで結びつきの弱かった村とのつながりが生まれた。安城村長となる岡田菊次郎が誘致した結果、1901年には安城村に愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)が開校。1906年には安城村と周辺8村を合併して町制が施行され、碧海郡で人口最大の都市となった。このことから、知立町から1910年に警察署、1914年に郡役所が移転し、郡の行政中心地としての機能を持つようになる。また、1923年に愛知電気鉄道(現・名鉄名古屋本線)が開通し、今村駅(現・新安城駅)が開業。1926年には、碧海電気鉄道(現・名鉄西尾線)が開通した。1934年、都市計画法が小都市にも適用されることとなり、安城町全域が適用範囲となった。
安城町には農林学校の他にも、多くの農業指導機関が移転・設置され、農業の多角化・共同化が実施されたことから、日本の農業先進地域として1920年代から1930年代にかけて「日本デンマーク」と呼ばれた。また、1910年頃より製糸工場が次々と建てられたことから、製糸業が発展したが、製糸業の衰退とともに工場も廃業していった。替わって1930年代に紡績業が隆盛したが、1940年代に紡績工場は軍需工場へと転換していった。
1943年には明治村(現在の市南西部)に海軍の明治航空基地が設置された。また、矢作町(現在の岡崎市。一部は安城市に編入)から上郷村(現在の豊田市南部)にかけては岡崎航空基地が設置された。太平洋戦争中の1944年には東南海地震が、1945年には三河地震が発生し、桜井町や明治村では大きな被害を出した。また、戦争末期には岡崎と明治の航空基地の中間地点に安城が位置していたことから、たびたび銃撃や焼夷弾を落とされることはあったものの、被害はほとんどなく、大都市からの疎開児童数は安城町内で515人に達した。戦災を逃れて工場を移転する企業もあった。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „安城市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: HQA02330, CC BY-SA 4.0 – Wikimedia Commons