Heimatgeschichte · Toyokawa ·

豊川市: 歴史

豊川市: 歴史

律令制の宝飯郡豊川郷にあたる。市域には古くから人が住んでおり、天間遺跡等の旧石器時代の遺跡も見つかっている。多数の甕棺墓が発掘された麻生田大橋遺跡は、縄文時代から弥生時代にかけての複合遺跡である。
5世紀後半に音羽川と西古瀬川の間の白鳥台地に築かれた三河最大級の前方後円墳船山第1号墳は、行者塚古墳(兵庫県加古川市)等畿内周辺の古墳及び昼飯大塚古墳(岐阜県大垣市)、宝塚古墳第1号墳(三重県松阪市)、高塚山古墳(三重県桑名市)に副葬されているものと共通の食物供献儀礼用笊形土器及び土製品が発掘された東限となっており、伊勢湾、三河湾などの水上交通で覇権を得た畿内豪族との繋がりがうかがえる。小坂井町には大和(奈良県)の豪族葛城氏系穂国造を祭神とするとされる菟足神社が鎮座する。6世紀後半から7世紀後半にかけては炭焼平古墳群が作られた。
律令時代には船山古墳付近に三河国国府や三河国分寺、三河国分尼寺が置かれていた。大宝2年(702年)の持統天皇三河行幸の際には、伊勢から航路で御津に上陸し、宮路山を訪ねたとされる。赤坂の杉森八幡社は、その際持統天皇により勧請されたと伝わる。財賀寺は奈良時代、神亀元年(724年)の創建と伝えるが、現存する仏像や考古遺物からは平安後期以降、山寺として発展したと見られる。
平安時代、藤原氏による摂関政治が行われていた頃、三河守としてこの地域に赴任した大江定基は、懇意の女性と死別したことをきっかけに比叡山延暦寺の寂心のもとで出家して寂照と名乗り、入宋して帰国することなく没した。このことは『今昔物語集』『源平盛衰記』『三国伝記』などに説話として収録されて広く知られたようであり、豊川市内を中心に三河の寺社には、財賀寺、長福寺、西明寺、関川神社、三明寺、花井寺など定基と所縁のあることを伝える所が多い。
鎌倉時代になって、鎌倉街道が整備されると、豊川宿として機能した。鎌倉時代の史書では、『海道記』に「豊河の宿」、『東関紀行』に「豊川といふ宿」と記載される。
室町時代の永享10年(1438年)の永享の乱で敗れた一色時家が、同族の三河守護一色義貫を頼り三河国に逃げ落ち、翌11年(1439年)、牛久保町付近に長山一色城を築城し根拠地とした。しかし翌年、時家を匿ったとして、将軍足利義教により義貫が討たれ、代わりに討伐に功のあった細川持常が三河守護となると、三河は他地域に先駆けて内戦状態に入った。この頃、豊川稲荷が創建された。
長禄2年(1458年)、長沢にあった、駿河守護今川氏の分家関口氏の岩略寺城を、岩津城(愛知県岡崎市岩津町)の松平氏宗家第三代松平信光が攻め落とし、子を長沢松平氏として分立して置いた。文明9年(1477年)松平氏宗家第四代松平親忠により、御津に大恩寺が建立された。同年、長山一色城の一色時家が、被官の大沢城(御津町)城主波多野全慶に謀反を起こされ討たれるが、のちに同じく被官の牧野古白が灰塚野合戦で波多野全慶を討ち取り、長山一色城主となり、その後牛窪城と改名した。
三河牧野氏は、駿河守護今川氏に臣従し、今川氏親家臣の北条早雲率いる軍勢との今橋合戦で牧野古白が自害したのちも、三河牧野氏が牛窪城主を務めた。なお、古白を攻めたのは松平長親であるとの説もある。享禄2年(1529年)牧野保成が、牛窪城付近に新城・牛久保城を築城する。しかし、同年に岡崎城の松平氏第七代松平清康が東三河に侵攻すると、牛久保城の牧野成勝は清康に従属した。松平氏が駿河の戦国大名今川義元の傘下になると、牛久保城の三河牧野氏も今川氏に従属した。今川義元は天文年間、豊川稲荷に寄進を行い発展させた。なお、永禄3年(1560年)に今川氏真が財賀寺に寺領と権限を安堵した文書では、八幡宮・三河国分寺・一宮(砥鹿神社)・総社などの供僧が財賀寺の所属とされている。
徳川家康が岡崎城に入り、松平氏が今川氏から自立すると、砥鹿神社里宮付近に一宮砦が築かれ家康家臣の本多信俊が置かれた。永禄6年(1564年)に一宮砦を襲撃した今川氏真の軍を家康らが撤退させたとされる「神君一宮砦後詰め」の逸話が知られる。また、家康は牛久保城を攻めるなどし、先に家康方に移っていた三河稲垣氏ら牛久保六騎の仲立ちを経て、城主の牧野成定を従属させた。この他、元亀4年(1573年)に野田城(愛知県新城市)を落とした武田信玄により、足山田城が築かれたが、これも家康により滅ぼされた。安土桃山時代になり家康の関東移封がなされると、牛久保城は豊臣家臣の吉田城(愛知県豊橋市)城主池田輝政の支城となった。
江戸時代には、三河吉田藩、西大平藩、新城藩の領地の他、寺社領、旗本領が置かれ、三河の天領を管理する代官所・赤坂陣屋も設置された。また、東海道の宿場である赤坂宿や御油宿は、近隣の大規模な岡崎宿等に対抗して飯盛女と称する売女が旅籠に多数雇用され、歓楽街として栄えた。今も残る市指定建造物の旅籠大橋屋や、国の天然記念物になっている御油の松並木で往時が偲ばれる。豊川稲荷などに向かう脇街道である姫街道(本坂道)も利用され、御油宿は追分宿として機能し、4軒の本陣があった。
明治時代、三河裁判所(豊橋市関屋町)の廃止に伴い、慶応4年(1868年)から明治2年(1869年)まで東海道赤坂宿の代官所を用いて三河県の県庁(豊川市赤坂町)が置かれ、郡制施行で宝飯郡役所が御油村、次いで国府町に置かれた。明治政府の殖産興業政策の下蚕種検査所が作られるなどし、養蚕業や製糸業が栄えた。第二次世界大戦中は、市内に豊川海軍工廠があったことにより豊川空襲で大きな被害を受けたが、終戦後、工廠跡周辺に多くの工場や商店ができ、工業・商業地域となった。
高度経済成長期には市外からの流入人口も増え、戦争によって激減した人口も市制施行時と同じ水準にまで回復した。

724年 - 財賀寺創建(寺伝による)。
741年 - 三河国分寺が置かれたとされる。
1441年 - 豊川稲荷創建。
1939年 - 豊川町、牛久保町、八幡村にまたがる地に豊川海軍工廠開庁。
1943年6月1日 - 宝飯郡豊川町、牛久保町、八幡村、国府町が合併し、豊川市市制施行(愛知県下8番目、全国208番目)。
1945年8月7日 - 豊川空襲で被災。
1955年4月12日 - 八名郡三上村を編入。
1959年4月1日 - 宝飯郡御油町を編入。
2006年2月1日 - 宝飯郡一宮町を編入。
2008年1月15日 - 宝飯郡音羽町、御津町を編入。市域が三河湾に面するようになった。
2010年2月1日 - 宝飯郡小坂井町を編入(同時に宝飯郡が消滅)。
2023年6月2日 - 台風2号によって発生した線状降水帯が記録的な大雨をもたらし、市内が冠水。多数の車両が水没する被害。

== 行政 ==

竹本幸夫(2019年10月20日就任、2期目)
歴代市長

豊川市役所
プリオ窓口センター(諏訪3丁目、プリオ5階)
一宮支所(旧一宮町役場)
〒441-1292 豊川市一宮町豊1番地
音羽支所(旧音羽町役場)
〒441-0292 豊川市赤坂町松本250番地
御津支所(旧御津町役場)
〒441-0392 豊川市御津町西方日暮30番地
小坂井支所(旧小坂井町役場)
〒441-0192 豊川市小坂井町大堀10

2022年度(令和4年度)会計別決算額

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Quelle: Text: Wikipedia – „豊川市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Lombroso, Public domain – Wikimedia Commons