野田市: 歴史
=== 野田市 ===
先史・古代・中世
野田は江戸時代以前の記録に乏しいが、小規模な遺跡が点在しており、古くから開かれていた土地であることがわかる。古代の遺跡としては野田貝塚、山崎貝塚などが残っており、中規模の集落があったとみられている。
中世の遺跡としては、後三年の役で活躍した鎌倉景正の居城や、古河公方の重臣・野田右馬助の居城があったと伝えられている。ただし遺構は発見されていない。
また尾崎には、鎌倉幕府の有力な御家人だった野本家定の城館と伝えられる、比較的規模の大きい城館跡も残っている。木野崎には、国人の一色数馬の城館跡が残っており、豊臣秀吉の派遣した軍との戦いがあったと伝えられている。
江戸時代
徳川家康の江戸入府後には、1590年(天正18年)に岡部長盛の居城が山崎に築かれ、のちに堤台に移ったと伝えられている。これらの遺構や伝承はある程度残っているものの、記録が少ないため中世の情報は不明な点が多い。
野田は江戸時代に入るとやや記録が増える。これは、大消費地となった江戸に出荷する醤油産業が興り、恵まれた水運を利用して、醤油の一大ブランド地として栄えていったためとされる。陸上交通として、日光東往還が通されたため、山崎宿・中里宿などの宿場も興った。
近代以後
1899年(明治32年) - 川間村が茨城県猿島郡中川村の一部(利根川以南)を編入し大字小山・筵内・長谷を設置。
1917年(大正6年) - 高梨家・茂木家など在郷醤油醸造家が合同して設立されていた野田醤油醸造組合が株式会社となる。
1921年(大正10年) - 野田醤油労働争議が勃発。全国から労働運動家が来訪。
1922年(大正11年) - キッコーマン醤油が市内2500世帯に上水道の供給を始める。以降、1975年に市内の水道事業が野田市に移管されるまで続いた。
1923年(大正12年) - 福田村事件が起こる。
1950年(昭和25年)5月3日 - 野田町・旭村・梅郷村・七福村が合併し、野田市となる(千葉県では8番目)。
1951年(昭和26年)
1月1日 - 川間村の一部(大字船形の一部)を野田市に編入する。
11月1日 - 北部地区に大字七光台を設置。
1957年(昭和32年)4月1日 - 川間村・福田村を編入合併。
1961年(昭和36年)9月1日 - 関宿町との境界を変更する。
1966年(昭和41年) - 東京理科大学野田校舎(現在の野田キャンパス)が竣工。
1970年(昭和45年)1月17日 - 中央地区に中野台鹿島町を設置。
1973年(昭和48年)
7月28日 - 川間地区に日の出町を設置。
12月15日 - 中央地区に上花輪新町を設置。
1980年(昭和55年)5月3日 - 北部地区に岩名一丁目・岩名二丁目・春日町・五木新町を設置。
1982年(昭和57年) - 野田工業団地造成完了。
1983年(昭和58年)11月19日 - 南部地区に山崎貝塚町を設置。
1988年(昭和63年)1月30日 - 北部地区に大字谷吉を設置。
1989年(平成元年)9月13日 - 南部地区に大字山崎梅の台を設置。
1995年(平成7年)
3月25日 - 南部地区に花井一丁目を設置。
12月23日 - 川間地区に大字尾崎台を設置。
1999年(平成11年)10月1日 - 関宿町との境界を変更する
2002年(平成14年)3月2日 - 南部地区にみずき一丁目・みずき二丁目・みずき三丁目・みずき四丁目を設置。
2003年(平成15年)6月6日 - 関宿町を編入合併。
2006年(平成18年)
9月2日 - 中央地区に清水公園東一丁目・清水公園東二丁目を設置。
9月30日 - 中央地区に桜の里一丁目・桜の里二丁目・桜の里三丁目を設置。
2009年(平成21年)
8月8日 - 中央地区につつみ野一丁目・つつみ野二丁目を設置。
11月28日 - 川間地区に泉一丁目・泉二丁目・泉三丁目を設置。
2011年(平成23年)1月1日 - 南部地区に桜木・桜台を設置。
2012年(平成24年)10月27日 - 北部地区に光葉町一丁目・光葉町二丁目・光葉町三丁目を設置。
2015年(平成27年)9月26日 - 南部地区に山崎新町を設置。
2016年(平成28年)10月29日 - 関宿中部地区になみき一丁目・なみき二丁目・なみき三丁目・なみき四丁目を設置。
1970年代以降、国道16号沿線に工場や物流施設が多数移転し、東武野田線を通勤路線として東京のベッドタウン化が進む。しかし、1990年代以降都心回帰現象の影響を受け、青年男子層が進学・就職を機会に市外に流出、高齢化の進展を見ている。
近年都市再生機構が市南部みずき(旧山崎)地区に開発を進めている野田みずきの街や、つくばエクスプレスの開業により東京都心へのアクセスが早くなった事から、人口は再び増加に転じている。
=== 方言 ===
金田一春彦の回想録によると東京方言との間に特筆すべき差がないとされているが、茨城県南西部や埼玉県南東部とともに下総国葛飾郡を構成していたためか、中・高年齢者には西関東方言(千葉県・埼玉県の他地域など)と東関東方言(茨城県など)が混合したような方言の話者が多い。この場合、アクセントも茨城弁ほどでないにせよ曖昧化・崩壊が見られ、東京式アクセントとはほど遠い。同様の方言は、隣接する流山市や埼玉県吉川市・三郷市などでも聞かれ(葛飾方言)、北へ行くほど東京式アクセントとの乖離が大きい傾向がある。