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狭山市: 歴史

狭山市: 歴史

古代 - 武蔵国入間郡に属する。
716年(霊亀2年)- 新たに高麗郡が設置される。中世以降、入間川西岸の一部地区が高麗郡に属する。
中世 - 入間川宿が鎌倉街道上道の宿場町として栄える。鎌倉街道上道は入間川宿で上野国方面と下野国方面に分岐していた。
1353年 (正平8年/分和2年) - 鎌倉公方足利基氏が上杉氏勢力に対抗するため、一時的に鎌倉府を入間川の入間川御陣(現在の徳林寺付近)に設置する。
近世 - 川越藩領や天領となる。天領は旗本知行地として旗本小笠原氏の所領となっていた。
近世中期 - 武蔵野の新田開発により三富新田などとともに不老川流域が開墾され、入間・堀兼の住民が増える。
1868年(慶応4年)7月12日(旧暦5月23日) - 渋沢成一郎の率いる振武軍と新政府軍が笹井河原で交戦。飯能戦争の発端となった。
1894年(明治27年) - 川越鉄道が開通。入間川駅(現・狭山市駅)・入曽駅開業。
1933年(昭和8年) - 武蔵野鉄道稲荷山公園駅が開業。
1938年(昭和13年) - 陸軍航空士官学校(現入間基地)が開設。
1945年(昭和20年) - 戦後進駐軍に接収され「ジョンソン基地」になる。
1954年(昭和29年)7月1日 - 入間郡入間川町・入間村・堀兼村・奥富村・柏原村・水富村が新設合併し市制施行で、狭山市となる。合併当時の人口は31,030人。
1958年(昭和33年) - ジョンソン基地の米軍機が市内で墜落事故を起こし、死傷者14名を出す。
1963年(昭和38年)
狭山事件が発生。同和問題との関わりや警察の捜査のあり方などをめぐって注目された。
ジョンソン基地が返還され、航空自衛隊入間基地となる。
1960年代から、市内の工場・宅地開発が進み、人口が急速に増加する。
1964年(昭和39年) - 新狭山駅が開業。
1966年(昭和41年) - 川越狭山工業団地が完成。
1970年(昭和45年) - 日本住宅公団(現:都市再生機構)狭山台団地の造成開始。
1973年(昭和48年) - 狭山工業団地が完成。
1975年(昭和50年) - 日本住宅公団狭山台団地が完成、入居開始。
1977年(昭和52年) - 狭山市立中央児童館に埼玉県内初となるプラネタリウムを設置。
1978年(昭和53年)9月8日 - 狭山市上奥富の住宅地に航空自衛隊T-33が墜落。乗員2人が死亡、住宅などが延焼。
1979年(昭和54年) - 西武新宿線入間川駅が狭山市駅と改称。
1983年(昭和58年)4月1日 - 入間市との境界変更。現在の市域となる。
1984年(昭和59年) - 人口が15万人を突破。
1986年(昭和61年)4月1日 - 第2代市長町田佐一が死去、その後の市長選挙で第3代市長に大野松茂が選出される。
1999年(平成11年)11月22日 - 航空自衛隊のT-33Aが入間川河川敷に墜落し、殉職者2名を出す。
2000年(平成12年)6月9日 - 財団法人日本品質保証機構(JQA)より市役所本庁舎を対象にISO14001を認証取得。
2003年(平成15年)6月19日 - 第4代市長町田潤一が死去、その後の市長選挙で第5代市長に仲川幸成が選出される。
2005年(平成17年)1月30日 - 「入間市との合併に関して市民の意思を確認するための住民投票」が行われ、投票の結果、入間市との合併は中止になる。
2008年(平成20年) - 狭山市観光協会により狭山市中心市街地活性化推進事業イメージキャラクター(ゆるキャラ)・観光大使「七夕の妖精おりぴぃ」使用開始。
2010年(平成22年)2月1日 - 全国瞬時警報システム(J-ALERT)整備完了。
2012年(平成24年)7月18日 - 狭山市駅西口に狭山市市民交流センターが開所。これをもって狭山市駅西口地区再開発整備事業が完了した。
2013年(平成25年) - 「七夕の妖精おりぴぃ」を狭山市公式イメージキャラクターに制定。
2014年(平成26年)7月27日 - 市制施行60周年を記念し、狭山市民会館大ホールにて「NHKのど自慢」の公開放送が行われた。
2017年(平成29年) - 市内小中学校の全普通教室にエアコンを完備する。

狭山丘陵及び市内の特産物「狭山茶」に由来する。しかし狭山市域に狭山丘陵地域は含まれていない。
江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、狭山は、狭山丘陵を指し、「狭山」という表現は山の名称の如く用いていた。国土地理院明治41年測図「青梅」には、狭山丘陵部に、別の狭山村(現在の東京都東大和市狭山町)もある。

この構想は、かつての入間川町と豊岡町の合併構想にまで遡るものである。戦中の1943年(昭和18年)には2町と入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村、藤沢村(現在は入間市)、東金子村(現在は入間市)の7村による合併が内定(新市名は「入間市」)したが3ヶ月で頓挫、戦後の昭和の大合併が進展していた時期には現在の狭山市・入間市域に所在した町村全部を一つの市にまとめるという合併構想があり、埼玉県も推進していた。またこれとは別に、江戸時代の武蔵野の新田開発によって開墾されたという共通の歴史を持ち、いずれも不老川流域にあたる入間村、堀兼村、宮寺村(現在は入間市)、藤沢村(現在は入間市)の4村が「農業都市」として合併し、将来的には共に境を接する所沢市(隣接地域は同じく共通の歴史を持つ三富新田にあたる)への編入をも計画するという動きも見られた。しかし西武鉄道路線やバス路線・道路など交通事情との関わりもあり、結局関係が最も深かった町村がまとまって現在の形に落ち着き、狭山市市政施行後は合併構想が提起されることは少なくなっていた。しかし平成の大合併の流れを受け、2000年頃から入間市との合併が協議され、2006年1月1日に合併の予定となった(新市名は「狭山市」)。しかし2005年1月30日に行われた住民投票で合併反対が多数となり、一方の入間市でも住民へのアンケートで合併反対が多数となったため、合併協議会は解散した。

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Quelle: Text: Wikipedia – „狭山市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Syohei Arai  This photo was taken with Canon PowerShot S5 IS, CC BY-SA 4.0 – Wikimedia Commons