石巻市: 歴史
=== 先史・古代 ===
石巻地方に人が住み始めた歴史は旧石器時代まで遡る。市内の丘陵には国指定史跡の沼津貝塚をはじめとした沢山の貝塚が発見されていることから縄文時代には既に人々が集団生活を送っていたと考えられている。弥生時代の石巻市域を伝える資料や遺跡は少なく、詳しい状況は分かっていないが、古墳時代の遺跡は数多く発見されており、新金沼遺跡からは数多くの土器が発見され、新金沼遺跡の近くにある新山崎遺跡からは方形周溝墓が発見されている。
仁徳天皇の治世になると石巻地方が伊寺水門(いしみなと)という名称で歴史の表舞台に現れる。伊寺水門の位置は現在の湊周辺と比定されている。日本書紀仁徳55年条によると『蝦夷叛く。田道を遣して撃たしむ。則ち蝦夷の為に敗られて、伊寺水門に死す(現代語訳:勅命で征夷の軍を率いて蝦夷たちと戦った上毛野田道将軍が伊寺水門にて戦死した)』とある。
朝廷による支配が当地へと及ぶようになり始めていた8世紀初頭、石巻地方の蝦夷らは海道蝦夷と呼ばれ、たびたび反乱を起こしていた。朝廷は海道蝦夷経営の拠点として牡鹿柵と桃生城を造営、当地に牡鹿郡・桃生郡を設置し律令制に石巻地方を組み込んだ。牡鹿郡は天平期に成立し、桃生郡は桃生城のできた天平宝字期に分離独立したとされている。8世紀中ごろになると牡鹿郡を本貫とする豪族道嶋嶋足が朝廷方の武人として活躍し、宿禰姓を賜姓されたり、陸奥国大国造や相模守、近衛中将に任ぜられたりするなど、地方豪族としては他に例を見ない出世を遂げた。嶋足は陸奥国大国造として、蝦夷経営に坂上田村麻呂と並んで影響力を有していたとされ、牡鹿郡を拠点に蝦夷征討を行っていた。このように朝廷の政治力は桃生・牡鹿両郡にまで及んでいたが、朝廷に恭順していた宇漢迷公宇屈波宇が「賊地」へ逃帰するなど、その統治は順調とは言えない状況であった。宝亀5年7月25日には桃生城襲撃事件が発生し、城の西郭が破られた。平安期になると征夷大将軍坂上田村麻呂らによる蝦夷討伐や植民を受けて徐々に海道蝦夷の反乱は沈静化し、同時に征夷が落ち着いたことで道嶋氏は没落していった。
鎌倉時代になると源頼朝の奥州藤原氏討伐で軍功を挙げた頼朝配下の諸氏が奥州藤原氏旧領を支配した。現在の石巻市域は大きく分けて牡鹿郡・遠島・桃生郡・本吉荘・深谷保に分かれていたが、牡鹿郡と遠島は葛西氏領、桃生郡北方は山内首藤氏領、深谷保は長江氏の支配下に入った。葛西氏や山内首藤氏、長江氏は関東の氏族であったため、このころ石巻に関東の文化が流入したとされる。葛西氏は石巻の地に石巻城を築き、葛西晴胤が寺池城(登米市登米町寺池)に移るまでの300年余の間、石巻を本拠地とした。
戦国時代、葛西氏は大崎氏・伊達氏などと勢力を競っていたが、戦国末期になると半ば独立した家臣らによる反乱に悩まされることとなった。反乱の対処に追われていた当時の葛西氏当主葛西晴信は小田原征伐に参陣することができず、豊臣秀吉に敵意があるとみなされ、奥州仕置で改易されられた。葛西氏の旧領には木村吉清が入り、石巻も木村氏の支配下に置かれた。一方、小田原に参陣して秀吉に服属した伊達氏は征服地のほぼ全てを没収された。伊達政宗は葛西・大崎の旧家臣を扇動して葛西・大崎一揆を起こさせたが、これは豊臣秀吉に露見した。政宗は改易を免れたものの、今の福島県、宮城県南部、山形県南部から、おおよそ宮城県全域と岩手県南部へ転封させられた。こうして石巻地方は伊達氏の領地となり、江戸時代を迎えた。
江戸時代になると、川村重吉により寛永4年(1627年)に北上川・江合川・迫川が改修されたことで北上川で河川舟運が活発に行われることになった。これにより、米穀類の海上輸送が開始され、大量の米穀類を保管し川船から海船への積み替え機能を有する港が必要になった。そんな中、葛西氏浪人の米谷喜右衛門なるものが石巻港の開港を仙台藩家臣鈴木元信に進言し、元和8年(1622年)には石巻に藩の米蔵が設置され、以降、石巻は北上川流域から集荷される藩米を保管し千石船で江戸や仙台城下へと米を供給する藩米輸送機構の拠点として機能するようになった。仙台藩や盛岡藩、一関藩、八戸藩などの江戸廻米は多くが石巻を経由して積み出され、年間20万石から30万石もの米が江戸に海上輸送されていた。これは江戸の総消費米の4分の1にあたるとされる。また、河村瑞賢による東廻り航路の開拓がなされると他藩の船も出入りするようになり、石巻港は「奥州最大の米の集積港」として発展し、石巻は交易都市として繁栄した。石巻港の開港と時を同じくして、本町・中町を中心に町場が形成され、次第に石巻村・石巻村端郷住吉、蛇田村にまたがる大きな町場となっていった。元禄期までには、北上川の河岸沿いに本町、中町、住吉町本町が続き、それに並列するように横町・裏町・住吉町新町・蛇田町が石巻町に配置された。
江戸中期には、石巻は仙台に次ぐ藩内第二の都市としての様相をなし、享保期には新田町の奥に鋳銭場所が設けられ、仙台藩内で唯一鋳造を許された。鋳銭場所では寛永通宝(享保仙字銭)や仙台通宝などが鋳造され、現在でもその名残として鋳銭場という町名が石巻駅前に残っている。
慶長18年(1613年)9月15日に仙台藩初代藩主伊達政宗がスペイン帝国との通商交渉のためにスペイン本国およびローマ法王庁に支倉常長を正使とする慶長遣欧使節を派遣した。政宗は当時スペイン領だったメキシコとの太平洋貿易を計画しており、月ノ浦でサン・ファン・バウティスタ号を建造して同地から出航させた。支倉一行はチヴィタヴェッキアに上陸し、その後スペイン帝国フェリペ3世に謁見、政宗の書状を渡すことに成功するなど、交渉は順調に進んだかのように思えたが、日本国内でのキリシタン禁制がヨーロッパに伝えられたことでスペインとの通商は実現しなかった。通商の目論見は失敗に終わったが、350余年後に慶長遣欧使節団を縁として石巻市とチヴィタヴェッキア市は姉妹都市となった。
寛政5年11月27日(1793年12月29日)、石巻湊から江戸へ向けて千石船「若宮丸」が出港した。しかし、その途上、岩城沖で若宮丸は舵を失って、アリューシャン列島に漂着した。乗員一行はロシア人の助けを受けナアツカ島で1年ほど生活したが、ロシア本土へ移送されることになり、イルクーツクまで移動した。しかし一行はここで約7年間、抑留された。これは、日本との交易を望んでいたロシア皇帝エカチェリーナ2世が死去した影響によるものと考えらえている。ロシア皇帝としてアレクサンドル1世が即位すると、交易の交渉材料として若宮丸一行を帰国させることが計画され、一行は首都サンクトペテルブルグでアレクサンドル1世に謁見した。石巻出港時に16人だった乗員はここまで数人が病気により死没または脱落しており、皇帝に謁見したのは10名で、このうち4人が帰国を希望した。この4名はニコライ・レザノフの使節団と共に大西洋、南太平洋などを経由し、文化元年9月6日(1804年10月9日)に長崎へ到着した。4名は長崎や江戸で抑留、取り調べを受け、江戸から故郷に向けて出立したのは漂流から約12年後の文化3年2月下旬(1806年)のことだった。この4人の名は津太夫、儀兵衛、太十郎、左平で、日本人として初の世界一周の事例と言われている。また、ロシアに残留した善六はゴローニン事件の際の日露間の文書翻訳者として歴史に名が残る。
==== 明治維新 ====
戊辰戦争で敗北した仙台藩が、明治元年に表高62万石から28万石に知行域を減らされた際、牡鹿郡、桃生郡、本吉郡は仙台藩から分離され、高崎藩の取締地になった。明治2年7月に、これら3郡は明治政府直轄の桃生県となり、一箇月後には石巻村の御仮屋(本町御殿横丁)と代官屋敷跡に石巻県庁が置かれ石巻県と名を変えた。明治3年9月に石巻県は涌谷に県庁を置く登米県に併合され、石巻には県庁の出張所が置かれた。明治4年4月に政府は小倉の西海道鎮台と共に、石巻に東山道鎮台を設置することを決めたが、同年8月に、鎮台は東京、大阪、熊本、仙台に置くことと改められた。 …