古河市: 歴史
=== 地理的条件 ===
古河の歴史に影響を与えた河川の様相は現在と異なる。 中世の渡良瀬川下流は太日川と呼ばれ(現在の江戸川)、直接東京湾に注いだ。そのため、古河は現在の東京・房総と北関東を水運で結ぶ位置にあった。さらに、この渡良瀬川・旧利根川水系と、鬼怒川・常陸川水系(太平洋に向かう現在の利根川下流)は独立しており、相互にはつながっていなかったと考えられている。両水系の接続は、中世関東の交通・物流にとって重要な課題であった。古河地方は両水系が最も近接する位置にあり、陸路による接続が容易になる。このような拠点性、および西方(現在の渡良瀬遊水地方面など)が湿地である天然の要害でもあったことから、室町時代には鎌倉公方が移座先として古河を選び、古河公方が成立した。戦国時代には、渡良瀬川・旧利根川に接する古河城・栗橋城、および、常陸川に接する水海城・関宿城の支配が、古河公方の権力基盤となった。江戸時代になって、利根川東遷により両水系が接続された後も、水運は古河と江戸などを結ぶ主要な交通・物流手段であり続ける。しかしこれら水運の良さと要害性の一方では、水害に悩まされることが多く、明治時代の足尾銅山鉱毒事件の際には、河川改修事業により古河城の遺構が破壊されることになる。
国境(県境)については、江戸期の古河藩領は下総国・下野国・武蔵国に跨るが、明治以降の市域は下総部だけが、印旛県・千葉県を経て茨城県に編入された経緯がある。旧常陸国、水戸街道を中心に形成された茨城県の県史において、古河はやや傍流的な位置づけになっている。
縄文時代のものとみられる貝塚、集落が発見されており、そのころから人が定住しているものと考えられる。
『万葉集』に、「許我(こが)」が二首(巻14、3555番及び3558番)詠まれ、渡良瀬川の渡し場として賑わっていたことが窺える。
“まくらがの 許我の渡りのからかじの音高しもな寝なへ児ゆえに”
“逢はずして 行かば惜しけむ 麻久良我の 許我(こが)漕ぐ船に 君も逢はぬかも”
交通路としては、下総国の古河からこの渡しの対岸は向古河であり武蔵国の最東北部の北川辺(現在の加須市)に入り、西へ進んで浅間川を南岸へ渡ると旧大越村を通りそこからは武蔵国内を南下できる。
渡良瀬川近くの市内牧野地に、川戸台遺跡が、9世紀初め〜10世紀の平安時代に東日本最大級の“製鉄所”跡で、ここで生産された鍋が多賀城(仙台市北東隣の多賀城市)や秋田城(秋田市)に送られていたことが、古河市教育委員会の発掘調査により判明した。同様に上大野の本田山遺跡も製鉄遺跡であり、律令国家の征夷事業との関係が注目されている。古河市教育委員会の発掘調査により、三和窯跡群の一角で、かつて飯沼だった東仁連川近くの古河市江口にある江口長沖窯跡で、9世紀後半の「半地下式平窯」が県内で初めて発見され、ここで作られた須恵器が水運により関東地方の広範囲に流通していたと考えられるなど、平安時代にも交通の要所であり、また製鉄や窯業の生産拠点であったことがうかがえる。
詳細は古河城・古河公方・古河府も参照
鎌倉時代
源頼朝の近臣・下河辺行平(小山氏の一族)が市内の立崎(竜崎)に館を築いたと言われる。古河城の起源とも考えられる。
吾妻鏡(寿永二年(1183年))に、下河辺行平と弟の政義が古我の渡し(渡良瀬川)と高野の渡し(古利根川)を固めたとある(源頼朝と源義広との争い)。
源頼政の伝説(頼政神社)、静御前の伝説(思案橋)や遺品(光了寺)が残されている
市域の大半は下河辺氏・幸島(さしま)氏、東部(飯沼以東)は山川氏が支配していたと考えられる
鎌倉街道中道は、五霞町元栗橋から市内前林・砂井新田・下辺見を経由して元の古河に向かう本道の他に、前林で分岐して磯部・女沼・下大野・関戸を経て小山・結城方面へ北上するルートもあった。この古道沿いに勝願寺・安禅寺・正定寺・長命寺・関戸の宝塔(旧金剛寺)、円満寺など古刹・遺跡が集まっている。
南北朝時代・室町時代〜戦国時代
古河城は鎌倉公方の軍事拠点、のちには古河公方の本拠地となり、元の古河は関東の中心の一つとして発展する。市域南部の水海(水海城)は古河公方重臣・簗田氏の拠点となった。
初代古河公方・足利成氏が鎌倉から古河に移る原因となった享徳の乱(きょうとくのらん、享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている。
第五代古河公方・足利義氏期には、関東の将軍たる成氏期と異なり、「古河公方領国」に支配を集中したが、その範囲は渡良瀬川と飯沼にはさまれた現在の古河市全域、境町域と坂東市域、埼玉県加須市北川辺、関宿を中心とした千葉県野田市の一部などであった。
詳細は古河城・古河藩も参照
古河藩が設置され古河城が藩庁となった。
歴代古河藩主においては、大老2人(土井利勝、堀田正俊)のほか、老中や京都所司代などにつくものも多い、有力譜代藩であった。
土井利勝に預けられた鮭延秀綱が正保3年(1646年)死去し、鮭延寺に葬られた。同寺には、熊沢蕃山も葬られている。
古河藩第十一代藩主・土井利位が、鷹見泉石の補佐を受け、天保3年(1832年)、日本初の雪の結晶に関する観察図鑑『雪華図説』を出版した。
古河藩領は、現在の市域を含む下総国北西部、および隣接する下野国南部、武蔵国北東部にまたがって形成され、当時の古河城下(現在の市域西部)は古河藩領の中心にあった。しかし近代以降に旧藩領は県境によって分断され、三方を他県域に囲まれた県最西端の町になる。
古河藩だけでなく、いまの市域東部・南部には、天領(幕府直轄地)や壬生藩領、 関宿藩領なども複雑に入り組んでいた。
東端にあった飯沼の干拓・新田開発が享保10年(1725年)に始まる。同12年には31か所の新田が生み出され、地域の景観が一変する。飯沼は古河市・八千代町・坂東市・常総市にまたがる広大な沼だった。
中世と同様に、交通の要衝であり続けた。
現在の市域西部を日光街道(日光道中)が南北に貫き、古河城下(元の古河)に古河宿、中田に中田宿が設けられた。一方、東部には日光東往還(日光東街道)が縦断し、谷貝宿・仁連宿・諸川宿が設けられた。
徳川将軍家による日光社参では、古河城に将軍が宿泊することが多かった。
古河城の城下町には渡良瀬川の河岸があり、水運が盛んで、農産物の集散地として高瀬舟が米や野菜を利根川、江戸川を経由して江戸に運搬していた。
古河藩は本土だけでなく、西国の飛び地も領有した。なかでも幕府に長年影響を与えてきた都市である摂津平野には古河藩の陣屋がおかれ、遠隔統治の拠点となった(のちに古河県 → 印旛県となったあと、大阪府となる)。
古河藩廃止後、若干の変遷を経て、市域は茨城県に編入。内国通運(現在の日本通運)が蒸気船を古河と東京の間に運航するようになった。1885年に開業した東北本線古河駅は茨城県内最初の鉄道駅である。製糸産業の発達で人口が急増した結果、古河町(当時)は一時期、茨城県内で2番目の人口となった。 …