土浦市: 歴史
=== 古代 ===
霞ヶ浦の西に広がるこの地域には古くから人々が活動し、市域には旧石器時代からの遺跡がある。縄文時代には、縄文海進により霞ヶ浦は大きな入り江(古鬼怒湾)となったと考えられており、その周辺に暮らす人々によって多くの貝塚が残された。上高津貝塚(上高津)はその代表である。弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡も多く見つかっており、この地域が多くの人口を有していたことがうかがえる。
后塚古墳や王塚古墳(ともに手野町)、武者塚古墳(上坂田)といった古墳は、ヤマト政権と手を結ぶ豪族の出現を物語る。律令制により常陸国が設けられ、その下に11の郡が置かれたが、現在の土浦市中心部は当時の茨城郡に属し(のちの太閤検地の際に新治郡所属とされた)、市域は筑波郡・河内郡・信太郡にもまたがる。
1151年、信太郡西部を中心とする一帯(現在の稲敷郡西部から土浦市・新治郡にかけての広大な地域)に、信太荘が成立。「土浦」という地名は、元徳元年(1329年)、東寺領であった信太荘内の地名として「東寺百合文書」所収の文書に登場するのが初出である。志田荘は、平安時代末期に志田義広が本拠を構え、鎌倉幕府成立後は八田知家が地頭として関わった。以後志田荘は、八田知家の末裔で小田城(現在のつくば市小田)に拠った小田氏の勢力下に置かれた。
室町時代の永享年間(1429年-1441年)、小田氏に属する若泉氏によって土浦城が築かれた。その後、小田氏配下の菅谷氏が城主となり、佐竹氏によって小田城を追われた小田氏治を迎え入れている。土浦城は小田氏の居城となり、小田原征伐まで小田氏が一帯を治めた。
小田原征伐後、小田氏は所領を没収され、その旧領は結城秀康の所領の一部となった。慶長6年(1601年)、結城秀康が越前に移転すると、藤井松平家の松平信一が3万5000石で土浦に入封し、土浦藩が成立した。その後、西尾氏・朽木氏が入ったものの、寛文2年(1662年)に若年寄土屋数直が入封。以後、一時期を除いて土浦は土屋氏の城下となった。土屋氏の石高は時期によって変遷があるが、綱吉から吉宗まで4代の将軍のもとで老中を務めた土屋政直の時代に9万5000石まで加増された。
慶長9年(1604年)、水戸街道(陸前浜街道)が整備され、現在の市域には江戸千住方面から水戸方面へ順に、荒川沖宿、中村宿、土浦宿、中貫宿の4つの宿場が置かれた(このほか、土浦宿と中貫宿の間の宿として真鍋宿がある)。街道は土浦の城下町を通っており、本陣・旅籠・問屋が置かれて土浦は宿場町としての性格も具えることになった。土浦は水戸街道と、霞ヶ浦水運が結びつく水陸交通の要地であり、多くの商家が軒を連ねた。土浦は常陸国では水戸に次ぐ第二の都市として繁栄し、1786年の調査では人口3988人を数えている。
土浦では醤油醸造業が盛んになり、野田・銚子とも並び称された(土浦の醤油醸造業の歴史については、2017年現在唯一の業者である柴沼醤油醸造の項目を参照)。江戸時代後期には、土浦の商人層からは国学者色川三中や、天文・地理学者沼尻墨僊が出た。
明治維新期、廃藩置県後の明治4年(1871年)に新治県が設置され、土浦はその県庁所在地となった。1875年(明治8年)に新治県は分割され、土浦を含む利根川以北は茨城県に編入された。土浦は茨城県南部地域の中心都市として、県庁第一支庁(1875年設置。現在の県南県民センター)、地方裁判所支部(1875年設置)、旧制中学校(旧制土浦中学校、現在の茨城県立土浦第一高等学校。1897年開設)などが置かれた。
1896年(明治29年)から翌1897年にかけて、日本鉄道の手により現在の常磐線が開通(当時の名称は土浦線。1896年に土浦〜友部間、1897年(明治30年)に土浦〜田端間が開通。1906年国有化)。それまでの内陸水運に代わり、鉄道が主な交通手段となる。1918年(大正7年)には土浦〜筑波間に筑波鉄道(筑波鉄道筑波線、のち岩瀬まで延伸。1987年(昭和62年)廃線)が開通し、土浦駅が常磐線との結節点となった。
1938年(昭和13年)6月29日より降り続いた集中豪雨により市内一帯が冠水。国道6号線付近における水位は 8 - 9尺に及んだ。被災者の救出のために軍隊も投入された。
1940年(昭和15年)、土浦町と真鍋町が合併、市制を施行し土浦市が発足した。
第二次世界大戦以前、土浦の南に隣接する稲敷郡阿見町に海軍の飛行場があったことから、土浦は海軍の町であった。1921年(大正10年)に阿見に霞ヶ浦飛行場が完成し、搭乗員養成機関である「霞ヶ浦海軍航空隊」が設置された。海軍関係者や面会者のための料亭や遊郭その他休養施設が現在の桜町に集められ、終戦に至るまで海軍の町としての役割を担った。霞ヶ浦飛行場には、海軍航空兵(海軍飛行予科練習生、通称「予科練」)の教育機関「土浦海軍航空隊」(1940年(昭和15年)開設)が置かれたことで知られる。
1945年(昭和20年)6月10日の空襲では海軍航空隊の兵舎や市街地も爆撃され、予科練習生や近隣住民など約300人が死亡した。
第二次世界大戦後から、1950年代に進められた昭和の大合併の中で、土浦市は新治郡都和村・上大津村や、稲敷郡朝日村の一部(荒川沖付近)を編入。
1985年(昭和60年)の国際科学技術博覧会(通称科学万博)が現在のつくば市で開催されたことにより、インフラ整備が進む。
平成の大合併の中で、2006年(平成18年)に新治村を編入。2014年(平成26年)2月10日には、土浦市長とつくば市長が合同記者会見を開き、両市の合併・中核市への発展を視野に入れた定期的な勉強会の開催が発表されたが、2017年(平成29年)につくば市側からの申し入れにより勉強会は解消された。
土浦村(現在の稲敷郡美浦村に吸収合併)からそのまま借りたという説、土屋藩の「土」と十一の「浦」の合成地名という説や、「津々浦々」からの転訛などの説がある。
1940年(昭和15年)11月3日 - 新治郡土浦町・真鍋町が新設合併し、土浦市になる。茨城県内では三番目の市制施行。
1948年(昭和23年)9月1日 - 朝日村の一部(沖新田と荒川沖・荒川本郷の各一部)と都和村を編入。
1954年(昭和29年)11月1日 - 上大津村を編入。
2006年(平成18年)2月20日 - 新治村を編入。