岩国市: 歴史
守護大名・大内氏が中国地方を統治していた室町期まで、岩国氏・弘中氏といった豪族がこの地を治めていた。関ヶ原の戦いの後、長門・周防の2国に減封された毛利家前当主・毛利輝元は、東の守りとして、毛利元就の次男・吉川元春の三男で、吉川家を相続していた吉川広家(広家は武断派と言ってよかろう、関ヶ原の戦いにおいて徳川方に通じ、毛利本家を参戦させないように画策した。結果として家康より広家に対して防長2州を与えられたが毛利本家安泰のため固辞した)に岩国を与えた。以後、岩国は、吉川家が治める岩国領6万石の城下町として発展していく。後述のように、関ヶ原敗戦の原因を毛利両川(小早川の裏切りと吉川の内応)のためと考えていた毛利本家から、幕府に対して支藩としての推挙がなかったため、岩国領と称された。吉川氏が諸侯に列し、大名となったのは慶応4年のことである。したがって岩国藩と呼べるのは、それ以後からのこととなる。旧市街である、錦見(にしみ)・岩国・横山といった現西岩国駅・川西駅の周辺が繁栄した。江戸年間、岩国藩と長州藩は幕末まで吉川家の家格をめぐって疎遠であった。また、現在の錦川下流の沖積平野は、吉川藩時代における殖産興業政策により埋め立て開墾された部分がほとんどである。この質素倹約政策のため、徳川政権時代に始まった派手な祭りは無いと言っていい。関ヶ原の戦いにおける吉川広家の施策のためか、第一次長州戦争(長州征伐)の際、萩藩と幕府側の仲裁に岩国藩主・吉川経幹(監物)が出向いた。また四境の役(第二次長州戦争)では小瀬川を挟んで芸州口の戦いの兵站地となった。
明治維新の後に廃藩置県で岩国県になるが、間もなく山口県に統合される。1925年(大正14年)、現岩国駅周辺の麻里布地区に帝國人造絹糸(帝人)の工場が建設された。以降岩国港を基盤にして山陽パルプ工業(現・日本製紙)、東洋紡績などの軽工業の工場が進出し、「人絹町」と呼ばれる工業地区が発展した。
昭和に入り、近隣の広島や呉や江田島と並んで、日本陸軍燃料廠や海軍潜水艦訓練基地や海軍岩国航空隊などが設置され、軍事都市としての色が濃くなり、別々の町だった岩国と麻里布が合併して市制を敷いた。同市の柱島には日本海軍の錨地が置かれ、戦前、戦中を通して柱島泊地として使われた。
1941年(昭和16年)9月17日、合併後の市議会で助役が18万円の赤字が生じる厳しい財政状況を説明。その後、西村市長と助役が市財政立て直しがつくまで年俸を辞退することを表明した。この種の給与返上は全国初の出来事となった。
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)12月5日、市内に昭和天皇の戦後巡幸。国立岩国病院(元海軍将兵療養所)、岩国興業組合(引揚者による林業事業体)、山口県岩国更生会館(生活困窮者の授産施設)、岩国東小学校、太刀洗航空廠跡地(引揚者のための住宅地)を訪問。慰問や激励が行われた。
その後は、旧来よりの企業により工業都市として発展を遂げる。旧日本海軍の航空基地跡に在日米軍の岩国基地も設置され、米軍の日本国内での軍事拠点の一つとなっている。このため、煙突などの高さに規制がかかり、新規企業の誘致が困難になった。しかし、海上自衛隊・米軍との共用への動きとともに市民の篤い要望でもあった民間空港再開は、2012年(平成24年)12月に岩国錦帯橋空港(岩国飛行場)が開港したことで実現した。
1940年(昭和15年)4月1日 - 玖珂郡岩国町・麻里布町・川下村・愛宕村・灘村が合併して岩国市(第1次)が発足。
1955年(昭和30年)4月1日 - 玖珂郡小瀬村・藤河村・御庄村・北河内村・南河内村・師木野村・通津村を編入。
2006年(平成18年)3月20日 - 玖珂郡由宇町・玖珂町・本郷村・周東町・錦町・美川町・美和町と合併し、改めて岩国市(第2次)が発足。
2014年(平成26年)8月 - 平成26年台風第12号の集中豪雨。新港町で土砂災害が発生し、死者1人、家屋被害3棟。