東久留米市: 歴史
東久留米市の縄文時代以前の遺跡は、1936年(昭和11年)自由学園の運動場拡張工事中に縄文時代中期の遺跡が発見されるなど、戦前期から発見されていたが、1950年代後半以降の高度経済成長期から、とりわけ1970年代後半の急速な都市化の進展に伴う発掘調査の結果、多くの遺跡が確認され、縄文時代以前の東久留米の様子が明らかになってきた。
東久留米市が位置している武蔵野台地は、厚い関東ローム層に覆われていて水が乏しい。しかし台地中に勾配が急に緩やかになる場所があり、急勾配を流れてきた地中を流れる地下水の流れが、勾配の変化によって堰き止められる形となるため、湧水群が成立することになる。先史時代の東久留米において、人々が住むようになったのはそのような湧水群の周辺であった。
東久留米市の遺跡の特徴として、旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡が多く、弥生時代以降の遺跡が少ないという特徴がある、これは湧水群という水に恵まれた環境に加えて、武蔵野台地上に落葉広葉樹林、常緑広葉樹林が広がり、ドングリ、トチ、クルミや、それらを食べているシカやイノシシなどの生物資源に恵まれ、縄文時代以前の東久留米は、採取狩猟生活に適した環境であったことによる。
東久留米市内で確認されている中で最古の旧石器時代の遺跡は、約3万年前の下里本邑遺跡と神明山遺跡である、約1万8000年前になると10以上の遺跡が確認されており、また大規模な集落が営まれていたことが確認されている。東久留米市近隣でも新座市や朝霞市にも旧石器時代の遺跡は分布しているものの、東久留米市の遺跡数が最も多い。これは黒目川の最上流部にあたる東久留米は湧水量が豊富で、居住に適していたためと考えられている。しかし旧石器時代の最末期は遺跡が激減していることが確認されている。
縄文時代草創期、前時代に続いて遺跡数が少ない状態が続いていたが、早期以降、前期、中期と遺跡数が増加していく。特に関東地方から中部地方にかけて遺跡数が激増した縄文時代中期、遺跡数は激増し、遺跡の規模も大型化する。しかし気候の寒冷化による生活環境の悪化と、中期の急激な人口増に伴う人口圧の結果、後期から晩期にかけて著しい人口減少が発生して遺跡数も激減する
。特に縄文時代晩期の遺物は東久留米市内ではほとんど確認されていない。
弥生時代に入っても、東久留米市内では遺跡の分布が極めて薄く、しかも規模も小さい。これは湧水群が水場である武蔵野台地奥部の東久留米は、水田に適した低湿地が少なかったためであると考えられている。そして古墳時代の遺跡はこれまで東久留米市内では確認されていない。下里本邑遺跡では奈良時代の可能性がある竪穴建物跡が検出されていて、向山遺跡からは平安時代のものと考えられる竪穴建物跡が確認されている。そして新山遺跡は平安時代末期から鎌倉時代のものと見られている。
東久留米市内の中世期で、注目されるのが板碑である。東久留米市内では破片を含めて107基の板碑が確認されており、最古のものは1279年(弘安9年)のものである。板碑は移動させることが容易で、最初に建てられた場所と現状の建立地が異なっている可能性もあるが、中世期における東久留米の状況を示す貴重な資料である。
1444年(文安元年)、曹洞宗の寺院、常牧院が創建されたと伝えられている。開基は八王子城主の安祝公、開山は崇芝性岱和尚とされている。常牧院は徳川家康の江戸入部以後の1590年(天正18年)、家康から朱印状が与えられている。
江戸時代には尾張徳川家の鷹場があり延命寺に前沢御殿または楊柳沢御殿と称する鷹狩の宿所の御殿が作られた。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、門前・神山・落合・小山・南沢・前沢・下里・柳窪・柳窪新田・栗原新田の10村、田無町の飛地を編入して神奈川県北多摩郡久留米村が誕生。
1893年 - 三多摩が神奈川県から東京府に移管。
1915年 - 4月15日、武蔵野鉄道(池袋〜飯能・現在の西武池袋線池袋〜吾野)開通・東久留米駅開設。
1938年 - 中島飛行機東京製作所の分工場(田無鋳鍛工場)設立。戦前、日本の戦闘機エンジンの約4割を生産していた中島飛行機武蔵製作所の関連工場として、現在の西東京市・東久留米市にまたがり、広大な中島航空金属田無工場とエンジン試運転設備が作られていた。
1956年 - 8月1日、久留米町として町制施行。北多摩郡の中では最も遅い町制施行であった。
1960年代前半から、公団東久留米団地、滝山団地、ひばりが丘団地などの大型団地が次々に建設され人口が急増(1960年(昭和35年)からの10年間で4.1倍)、一時期は人口78,000人の日本一人口の多い町となる。
1970年10月1日 - 東京都22番目の市として市制施行。同時に自治体名を改称し、東久留米市が発足(すでに久留米市が存在したため)。
1978年 - 市発注の水道工事、土木工事の入札に暴力団関係者が介入していたことが発覚。
1983年 - 防災行政無線が整備される。
1984年4月1日 - 防災行政無線が開局される。
「歴史的農業環境閲覧システム」による「迅速測図」
明治初期から中期にかけての当時の地図
「今昔マップ on the web」による時系列地形図
1896~1909年 当時の地図
1917~1924年 当時の地図
1927~1939年 当時の地図
1944~1954年 当時の地図
1965~1968年 当時の地図
1975~1978年 当時の地図
1983~1987年 当時の地図
1992~1995年 当時の地図
1998~2005年 当時の地図
「くるめ」と読み書く地名となった由来や説はいくつかある。
古代の車持部の住地という説
くるみの方言という説
小さな平地を意味するという説
市内を流れる黒目川の「クロメ」が転じて「クルメ」という地名になったという説。元々は、黒目川は「クルメ」とも呼ばれており、後年の人々が当て字として久留米・久留目・来梅・黒目などの漢字表記を用いたのが広まり、「久留米」の名が認知された。
一般的には市内の北部を流れる現在の「黒目川」の旧称である「久留米川」から付いたといわれている。
市制施行時、既に福岡県久留米市が存在したため、行政的な混同を避け、また駅名の「東久留米」が住民に親しまれていたため「東久留米市」とした。