唐津市: 歴史
=== 略史 ===
現在の市域全体を範囲に曖昧さはあるにせよ包括的に指す地名は、松浦潟や松浦川に見られるごとく、もともと松浦(まつら)が一般的であった。唐津の名はもともと17世紀初頭に松浦川河口付近に造成された城下町を指す限定的な名称に過ぎなかったが、1889年(明治22年)町村制施行によって成立した東松浦郡唐津町を母体として周辺の町村の編入と対等合併を繰り返し現在の唐津市となったことで、現在では城下町部分のみならず市域全体をもって唐津と呼ぶことが一般的となっている。
唐津神社社務所に現存する史料によると、1449年(文安6年)の寄進状に唐津大明神との記述があり、これが唐津の名が顕れる現存する最古の史料である。
縄文時代晩期には水田稲作が行われていたことが確認されている(菜畑遺跡)。魏志倭人伝に記述のある末盧国(まつろこく、まつらこく)は唐津市近辺に存在したと比定する研究者が多い。古墳時代に松浦地方を支配した豪族らによって多数の墳墓が築造された。この代表が国内最古級の前方後円墳・久里双水古墳であり、市内には多数の古墳が残されている。
律令制では肥前国松浦郡に含まれ、『肥前国風土記』によると「松浦郡、郷一拾一所、里廿六、馬伍(うまや)所、烽捌所」とある。また、現在の鏡山に当たる山は「襟振峰は郡の東にあり」と記されているから、郡衙は、鏡地区にあったと推定される。松浦の語の由来は明らかでないが、神功皇后紀(『日本書紀』巻第九 気長足姫尊)摂政前記夏四月の条に「松浦県に至り、願い事をしてから釣り糸をたれると鮎が釣れた。珍しきものと言ったことを、その所の人が名付けて梅図邏(めづら)国という。今松浦というは訛りなりと」(大意)と説明している。また、末盧国の「まつら」がそのまま地名となったともいわれる。万葉集には鏡山、玉島川、松浦川の情景が詠まれている。
平安時代からは肥前国府による統治となったが、国司政治が緩みだした平安期中頃には松浦地方各地の豪族が連合体としてこの地を支配し、松浦党と呼ばれた。現在の唐津市を含む東松浦郡・西松浦郡の地域は上松浦郡と呼ばれ、波多地区(唐津市北波多・伊万里市南波多)を拠点とする波多氏が最大の勢力だった。一族はそれぞれの所領の地名を名乗り、ほかに相知氏、佐志氏、呼子氏などがいた。また、拠点として波多氏の岸岳城(鬼子岳城)や獅子城などの城が築かれた。
戦国時代には龍造寺氏の侵略を防ぐなどしていたが、豊臣秀吉が九州征伐を開始するとこれを出迎え従った。豊臣秀吉は1591年(天正19年)朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として名護屋地区に名護屋城を築城した。1593年(文禄2年)には寺沢広高が唐津藩を与えられ、上松浦地方の統治を始めた。またこの年には秀吉の怒りをかった波多氏が滅ぼされたが、地元民の同情から岸岳末孫の祟りの話がいわれるようになった。
寺沢広高は波多氏の滅亡後、岸岳城の麓に仮城を造営し仮の居城とした。広高は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。1602年(慶長7年)より唐津城の本格的な築城を行い、1608年(慶長8年)に城下町共々完成した。このとき東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、波多川(現代における松浦川)がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。広高は松浦川の流路変更(治水事業)に見られるように土木事業に長けており、防風林として松原の保護育成を行った。これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている。またこの頃は現在に至る唐津焼の技法が確立された時期でもあり、1615年(元和元年)には中里太郎右衛門陶房などが唐津藩の御用窯に指定されている。
広高の子の堅高は唐津藩二代藩主となったが、天草領に構えていた富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。堅高は1647年(正保4年)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となり、寺沢氏が改易となると唐津藩領は一時天領となった。次に慶安元年(1649年)播磨国明石城主大久保忠職が唐津藩主となった。1678年(延宝6年)には大久保氏が下総国佐倉城に転出し、代わって同地より大給松平乗久が入城。1691年(元禄4年)大給松平氏が志摩国鳥羽城に転出し、同地より土井利益が入城。1762年(宝暦12年)土井氏が下総国古河城に転出し、三河国岡崎城より水野忠任が入城。1817年(文化14年)に、後に天保の改革を行った四代目の水野忠邦が出世目的に遠江国浜松城に転出を希望し、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城、以後は小笠原氏が統治した。譜代大名6家が入れ替わり、長期間による藩主家の一大支配時代が一度も到来しないまま、明治維新により唐津藩は姿を消した。
1819年(文政2年)、伊勢神宮を参拝後の帰途に京都で見た祇園祭に感動した刀町の石崎嘉兵衛が帰郷後、仲間たちと獅子の頭を製作し、唐津神社に奉納した。この後、唐津神社秋季例大祭である唐津神祭が現在のような曳山を曳く祭に変化していくきっかけとなった。後に一時期は唐津山笠とも呼称したが、その後唐津くんちと呼ぶようになった。
廃藩置県にともない唐津藩は唐津県となり、同時に唐津城は本丸が舞鶴公園となり、他の区画は民間払い下げとなり建物も破却された。その後伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県と変遷し1883年(明治16年)に佐賀県が長崎県から分離独立し佐賀県の一部となった。また1889年(明治22年)の町村制施行で東松浦郡唐津町などが発足。昭和初期までに満島村と唐津村を編入し1932年(昭和7年)に市制施行、唐津市となった。市役所を東松浦郡役所跡に設置した(現福岡銀行唐津支店及び唐津信用金庫)。
古くから海上交通の拠点であった唐津は、この後貿易の拠点として急速に発展していった。1882年(明治15年)に当時満島にあった唐津港で唐津炭田の石炭輸出を開始。1889年(明治22年)には特別輸出港に指定され、同時に長崎税関唐津出張所が設置された(3年後に税関支署に昇格、戦後降格し門司税関に移管)。さらに後述する鉄道の開通により、以後満島の貿易機能は順次西唐津・大島へ移転し現在に至る港湾地帯を形成した。貿易額は日を追う毎に増大していったが、第一次世界大戦の影響で外資関係が先細りとなり、1920年頃をピークに貿易額は減退し、昭和初期には石炭不況や第二次大戦の影響でさらに衰退していった。
明治末期から大正・昭和初期にかけて唐津の交通は大きく発達した。1898年(明治31年)に唐津興業鉄道(後の唐津鉄道、現JR唐津線)が開通したがこれに収まらず、翌々年の1900年(明治33年)に満島馬車鉄道による馬車軌道が満島松原口(現東唐津駅) - 浜崎松原口(現浜崎駅)間に開通しその後松浦橋を経由して中心部の大手口を越え西唐津果ては佐志まで延伸された(その後石油発動機による運行となるが自動車への転換にともない廃止)。福岡方面への鉄道は1926年(大正15年)に東唐津から博多まで全通、伊万里方面は1935年(昭和10年)にようやく全通したが(ともに北九州鉄道による)、まもなく国有化された。北九州鉄道のバス事業は現在に至る昭和自動車に譲渡された。
奇しくも唐津は太平洋戦争で空襲を受けなかった。
1949年(昭和24年)5月24日、市内に昭和天皇の戦後巡幸があった。厳木中学校、舞鶴公園、唐津高校などに行幸した。1961年(昭和36年)4月20日には、地方事情視察のため県下に行幸啓した昭和天皇、香淳皇后が鏡山山頂(虹の松原を遠望)、唐津鉄工所、唐津くんちの山笠を視察。宿泊は唐津市長邸が使用された。
唐津市における戦後復興の象徴として1953年(昭和28年)の舞鶴橋の完成が挙げられる。これをきっかけに東西臨海地域を接続する佐賀県道279号妙見満島線(産業道路)が整備された。また同年には唐津競艇が初開催した。1954年(昭和29年)には鏡村・久里村・鬼塚村・湊村を編入(人口約7万)。戦後のベビーブームと石炭積み出し港としての需要の高揚により、東松浦郡と唐津市を合わせた人口はこの頃最盛を迎え、1955年(昭和30年)の国勢調査人口は約19万人弱であった。 …