Heimatgeschichte · Hatsukaichi ·

廿日市市: 歴史

廿日市市: 歴史

=== 先史 ===
旧石器時代
現在の廿日市市域に人が居住しはじめたのは有史以前の時代のことである。市域では旧石器時代の遺跡として、冠遺跡と頓原遺跡(いずれも吉和地区)、神宮原遺跡(佐伯地区)などが見つかっている。
また、速谷神社(上平良地区)境内からは旧石器時代末期から縄文時代初めごろとされる安山岩製の槍先型石器が採集されている ほか、厳島の北西岸の下室浜では後期旧石器時代のナイフ形石器が出土している(厳島を参照)。

縄文時代
縄文時代には海面の上昇(縄文海進)とともに瀬戸内海が形成され、沿岸部に人が居住していた。
地御前南町遺跡(地御前地区)からは黒曜石の石器が出土しているが、これは海を隔てておよそ100キロメートル南西にある国東半島の姫島産のもので、遠隔地とも交流があったと見られている。
土器は九州地方の影響を受けたものも多い。このほか上平良や内陸部の原地区、大野瀬戸沿いの大野地区 にも縄文時代の遺跡があるほか、厳島の沿岸部にも、複数の縄文遺跡が存在している。

弥生時代
北部九州に稲作技術が伝えられるとほどなくしてこの地域でも稲作が始まった。丸小山遺跡(峰高地区)の遠賀川式土器はそのことを裏付ける典型的な西日本の弥生土器である。
また極楽寺山尾根筋の標高260メートル付近にある高尾山遺跡 は典型的な弥生時代後期の高地性集落遺跡で、水も引けず耕作に適さないことから海上を見張る役割を果たしていたと考えられている。この高尾山遺跡のほか、上平良地区から原地区、宮内地区にかけては堤上遺跡、河野原遺跡(1 - 5号)、広池山1号・2号遺跡(宮園団地造成に伴い消滅)、極楽寺二三丁遺跡、風呂谷遺跡、扇平遺跡、長谷1号遺跡など、農耕には適さない高地性集落遺跡が多く見つかっている。
大野地区高畑で大正時代末に発見された「高畑貝塚」からは、海産の貝殻と共に土器片、石鏃、獣や人の骨が出土している。
旧大野町文化財協会の出版物 には「当時の京都大学人類学教室の清野謙次教授の鑑定によると、人骨は約二千年前の若い女の骨で(中略)土器は弥生式土器でありました」とあり、長らく縄文から弥生期の貝塚と見なされているが、清野教授の当該論文 には「土器は小破片である為によく分かり兼ねるが、恐らく縄文土器系統のものであって、末期に位するものらしい。(中略)人骨は小児骨と完全に近い熟年の頭骨(顔面骨及下顎骨を欠く)である。いづれも貝層中から出て来たものであると云ふが、頭形に於て多少の疑義がある、日本石器時代の人骨であるか、或は貝塚に後世墓地があって後世人骨が出て来たものなるや判然しない」とあり、鑑定結果が不明瞭であったことが分かる。大野地区では江戸期の貝塚である「郷貝塚」など、中世から近世のものと見られる貝塚が複数確認されており、高畑貝塚も新しい時代の貝塚、あるいは複合遺跡であった可能性が考えられる。

飛鳥時代
この地域がヤマト王権の支配下に入ると、部民制のもと佐伯部がおかれた。一帯は佐伯郡(さへきのこほり)として安芸国に組み込まれた。佐伯部は東国人の捕虜を播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5か国に移住させて品部として設定したもので、在地の豪族が「佐伯直」や「佐伯造」となって伴造として業務を管掌していた。これらの豪族は畿内の有力豪族である佐伯連(後に宿禰)に管掌されており、この地域は間接的に天皇・畿内に連なる部民であった。またこの地域の佐伯直は、後に厳島神主家となった。
伝承によると、推古天皇元年(593年)に豪族の佐伯鞍職が神託を受け、勅許を得て厳島の御笠浜に社殿を創建した(「厳島神社縁起」)とされ、これが厳島神社の由来という。
文献の初出は811年(弘仁2年)に名神に列したというもので、927年(延長5年)には『延喜式神名帳』において名神大社に列せられている。以後、廿日市市域の歴史は厳島神社の動向に大きく左右されることになる。

平安時代
佐伯郡の郡衙(役所)は現在の広島市佐伯区利松あたりにあり、種箆(へら、現在の廿日市市下平良)という郷名が承平年間(931年 - 938年)の「和名類聚抄」に見える。律令制実施後は五畿七道の山陽道(古代山陽道)が平安京から太宰府に通じる大路として整備され、市域には種箆と濃唹(おおの、現在の廿日市市大野高畑)という2箇所の駅家があった。
1146年(久安2年)、平清盛は安芸守に任ぜられ、高野山の高僧から「安芸の厳島神社を修繕すれば、並ぶ者なき官位と栄華を手に入れられよう」と預言されて厳島神社の修繕を決意し、1168年(仁安3年)には海上に浮かぶ壮麗な寝殿造の社殿を造営する。
摂津国の四天王寺からは舞楽を移し入れ、多くの武士や貴族が甲冑や刀剣、鏡面を奉納するなど京の文化が多く流入した。
中でも「平家納経」は、経文の装飾のみならず経箱・唐櫃に至るまで絢爛豪華な装飾が施されており、平安時代の工芸を今に伝える第一級史料とされる。
12世紀後半には清盛の庇護のもと、佐伯郡内でも平良荘・宮内荘(廿日市市宮内)・大竹・小方(大竹市小方)・川内・寺田・保井田・佐々利別府・石道村・久島郷(廿日市市玖島)・吉和村(廿日市市吉和)などに厳島神社社領が加増されていった。

中世には廿日市周辺は厳島神社領であった。友田興藤が大内氏に敗れて以降は、大内氏、陶晴賢に支配され、厳島の戦いの後に毛利氏の支配下となった。その後は広島藩領となった。江戸時代には西国街道の廿日市宿が置かれて栄えた。1802年の旅行記『筑紫紀行』には「人家千軒ありといへり、おほくは瓦葺にて宿屋茶屋多く町長し」とある。幕末の長州戦争では現在の市の西部が戦場になった ほか、長州藩の進軍を止めるためとして、広島藩によって廿日市の宿場町が焼き払われた。

明治時代
1878年(明治11年)11月1日 - 廿日市に佐伯郡役所が設置される。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により佐伯郡廿日市町が成立。

昭和時代
第二次世界大戦中 - 高見山で大野鉱山が採掘を開始。各種兵器の材料となるタングステン鉱石が産出されたため、陸軍の秘匿鉱山とされた。
1947年(昭和22年)12月5日 - 昭和天皇の戦後巡幸。宮島口駅でお召し列車を下車後、宮島に渡り岩惣旅館に宿泊。翌日は広島市へ向かった。
1951年(昭和26年)10月 - 宮島口の海岸が第6回国民体育大会の漕艇競技会場となる。同月2日、昭和天皇が会場に行幸。
1956年(昭和31年)9月30日 - 廿日市町・平良村・原村・宮内村・地御前村が合併して新たに廿日市町が発足。
1957年(昭和32年)6月10日 - 五日市町佐方の一部区域を編入。
高度経済成長期以降、広島市に隣接する五日市町と西隣の廿日市町は、ともに広島市のベッドタウンとして急速に発展を遂げた。五日市町は1980年国勢調査で、廿日市町は1985年国勢調査で、それぞれ人口日本一の町となっている。両者は人口増に伴う都市基盤整備の議論の渦中におかれ、五日市町は広島市との合併を選択して、1985年(昭和60年)3月、旧町域全域を区域とする「広島市佐伯区」が発足した。当初は廿日市町も佐伯区に編入するとの案があったが、廿日市町は単独市制を選択したため立ち消えになった。
1988年(昭和63年)4月1日 - 市制施行し、廿日市市が発足。当初は面積47.89平方km、人口約58,000人(1985年国勢調査では52,020人)のコンパクトな市であった。

平成
1989年(平成元年)6月1日 - 広島市と境界変更。
2003年(平成15年)3月1日 - 佐伯町・吉和村を編入。市域が約8倍に拡大する。
2005年(平成17年)11月3日 - 大野町・宮島町を編入。なお、これにより佐伯郡は消滅した。

von Fremdinhalte · Regionauts

Quelle: Text: Wikipedia – „廿日市市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: As6022014, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons