彦根市: 歴史
※新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦を主とし、丸括弧内に西暦(1581年以前はユリウス暦、1582年以降はグレゴリオ暦)を添える。「同年4月(4月)」は「旧暦4月(新暦4月)」の意、「同年4月(4月か5月)」とあれば「旧暦4月(新暦では5月の可能性もあり)」の意。
縄文時代:松原内湖遺跡(在・松原町。縄文時代の琴・丸木船・縄文土器等、出土)、南川瀬南遺跡(在・川瀬馬場町。竪穴建物跡、縄文土器、土師器等、出土)等の最も古い形成期。
弥生時代:掘南遺跡(在・堀町。方形周溝墓、竪穴建物跡、土師器等、出土)、肥田西遺跡(在・肥田町。弥生土器、須恵器等、出土)等の最も古い形成期。
古墳時代前期:荒神山の尾根に荒神山古墳が築造される。全長約124mと、規模にして滋賀県下第2位の前方後円墳。
古墳時代後期:荒神山一帯に群集墳が築造される。
630年(舒明天皇2年):近江国犬上郡(現・彦根市相当地域を含む)発祥の豪族・犬上氏(犬上君)出身の犬上御田鍬が、第1回遣唐大使として唐へ出航。
671年(天智天皇10年)7月2日 (旧暦)(8月12日)前後:壬申の乱において、大友皇子(弘文天皇)の将・山部王が犬上川河畔に布陣したところ、味方の将である蘇我果安と巨勢比等(巨勢人)に殺害される(事由は不明)。
672年(天武天皇元年)7月9日 (旧暦)(8月7日):壬申の乱の一局面として、鳥籠山(とこのやま)の戦いが勃発。7月7日に息長横河(おきながのよこかわ。現・米原市梓河内)で大友皇子(弘文天皇)方・境部薬軍を撃破した(息長横河の戦い)大海人皇子(天武天皇)方・村国男依らの軍勢は、その2日後、鳥籠山に布陣した秦友足軍(大友皇子方)も破り、秦友足を討ち取る。なお、『万葉集』にも歌われた「鳥籠山」なる山の所在は特定されておらず、現在の大堀山と比定する説も含めて諸説が並立する。
710年(養老4年):淡海公・藤原不比等が近江国国司としてこのころ彦根に住んだことから、その子・藤原房前が、自ら護持仏としていた黄金の亀の背に乗った高さ1寸8分(約5.5cm)の聖観音像を本尊として、当年、彦根山に金亀山 西寺観音(彦根寺)を建立する。
7世紀前半(奈良時代前期):行基が平流山(へいるやま。現・荒神山)山頂に奥山寺を開山したと伝わる。
==== 鎌倉時代 ====
1192年(建久3年):鎌倉幕府が成立し、佐々木定綱が近江国守護となる(佐々木氏による近江国支配の始まり)。
建久年間(1190 - 1198年):佐和山城の最古の史料あり。鎌倉時代の近江国守護・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされる。
1242年(仁治3年3月7日 (旧暦)(4月8日):佐々木信綱の死に伴い、所領は分割統治されることとなり、江北6郡(当時は犬上郡を含む)は四男・氏信(京極氏信)が継承する(京極氏の登場と、その支配の始まり)。
室町時代中期:犬上郡(現在の彦根地方を含む)の多賀神社(現・多賀大社)を本拠とする多賀氏と坂田郡を本拠とする多賀氏が同族間で争う。
戦国時代前期:近江国守護・佐々木氏の嫡流で湖南を統べる六角氏が、湖東(犬上郡を含む)および湖北の一角をも勢力下に置く。
時期不明ながら、荒神山に六角氏の重臣・日夏安芸守が荒神山城(日夏氏[六角氏の庶流]居城)を築く。
1468年(応仁2年):応仁の乱の局地戦において、東軍の京極持清重臣・多賀高忠らが、六角高頼ら西軍を破り、湖北・湖東から六角勢を排除する。
1469年(文明元年):六角氏に替わって京極氏(京極持清)が近江国守護を任じられる。
1472年(文明4年)9月 (旧暦)(9月か10月):京極方の実権者・多賀高忠が、京極方の政敵と六角高頼ら西軍方の連合軍を破り、湖北・湖東を掌握するも、同月末に巻き返され、結果、六角氏が再び勢力を伸ばす。
1475年(文明7年):多賀高忠が再起し、六角高頼に勝利するも、西軍方の援軍に敗退。
1494年(明応3年):神仏習合によって多賀大社(在・犬上郡多賀町多賀)に神宮寺として不動院(天台宗)が建立されると、これ以降、同社は「お伊勢参らばお多賀へ参れ」と俗謡に歌われる全国的聖地となってゆき、同社とその参詣道周辺では伊勢・熊野と相比される隆盛が近世末まで続く。
1560年(永禄3年):野良田の戦いで浅井氏が六角氏に大勝し、これ以降、湖北・湖東における六角氏勢力を一掃する(湖北・湖東の名目上の支配者であった京極氏の時代もここで完全に終わる)。これにより、当時の犬上郡も浅井氏勢力下に入る。
==== 安土桃山時代 ====
元亀年間(1570 - 1573年):佐和山城主・磯野員昌(浅井氏家臣)が織田信長らと8ヶ月に及ぶ激戦を繰り広げる。
1571年(元亀2年2月24日 (旧暦)(3月19日):佐和山城の磯野員昌が織田信長に降伏し、犬上郡は織田政権下に入る(浅井氏支配の終わり)。その後、織田氏家臣・丹羽長秀が佐和山城に入城。
1571年(元亀2年)頃:比叡山焼き討ちと時を前後して、荒神山山頂の奥山寺(現・荒神山神社)が織田信長に焼き討ちされる。荒神山城もこのとき廃城処分されたという説がある。
1582年(天正10年)6月27日 (旧暦)(7月26日):清洲会議の結果、明智光秀討伐に功のあった堀秀政に佐和山城が与えられ、翌年、入城。犬上郡は豊臣政権下に入る。
1585年(天正13年):転封となった堀氏に替わって堀尾吉晴が佐和山城に入城。
1595年(文禄4年):石田三成が佐和山城に入城(従来説では天正18年[1590年]、他説では天正19年[1591年]4月)。これよりのち、荒廃していた城を近世城郭に大改修する。
1600年(慶長5年)
7月29日 (旧暦)(西暦9月6日):伏見城攻め督戦のため、石田三成が佐和山城を出陣。
9月15日 (旧暦)(西暦10月21日):関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍が徳川家康率いる東軍に敗北。
9月15日 - 18日 (旧暦)(西暦10月21日- 24日):佐和山城の戦い(三成の居城・佐和山城が小早川秀秋軍を先鋒とする東軍の猛攻撃を受けて落城する)。
関ヶ原の戦いの後
犬上郡古来の有力豪族であった多賀氏は、西軍に属したことから所領を没収され、地域から追放される。
井伊氏(当主・井伊直政)が上野国高崎から近江国佐和山に転封となる。同年、井伊共保以来井伊氏の菩提寺で行基開祖とされる遠江国引佐郡の万松山龍潭寺を分寺し、僧・昊天(こうてん)が佐和山麓に建立(弘徳山龍潭寺の創建)。
1602年(慶長7年)7月 (旧暦)(7月か8月):中山道の整備にあたって、古より東山道の宿駅であった小野村(小野宿)を伝馬継所と定める。 …