Heimatgeschichte · Kamagaya ·

鎌ケ谷市: 歴史

鎌ケ谷市: 歴史

縄文時代の貝塚が発見されていて、現在の貝柄山公園の名称の由来ともなっている。
鎌倉時代には相馬氏が佐津間を所領としていた。
江戸時代には本多氏が現在の鎌ケ谷市の一部を所領としていた。
江戸時代には小金牧の一部とされ、野生馬の供給地ともなっていた。現在の馬込沢はその前の時代の名残とも言われている。
1616年(元和2年):原田勘兵衛が幕府より中沢の地を与えられる。
1687年(貞享4年):松尾芭蕉が「鹿島紀行」の途上、鎌ケ谷(小金牧)を通る。
1776年(安永5年):大国屋文右衛門(福田文右衛門)が鎌ヶ谷大仏を建立。
1825年(文政8年):渡辺崋山が宿を取る。「四州真景図」の2巻に行徳などと並んで「釜原」の絵がある。
1869年(明治2年)5月19日:下総の牧を開墾するために政府の求めで開墾会社が設立される。総頭取三井八郎右衛門、以下社員37名。事業完結後には広大な開墾地を保有して大地主になれるという約定。湯浅七兵衛(現在のユアサ商事創業家の一族)、大村五左衛門、加太八兵衛が初富担当。
1869年(明治2年)10月:入植者募集が行われる。最終的には1760世帯、6500人が応募。(全員が鎌ケ谷に来たのではなく、下総の各開墾地に送り込まれた)。
1869年(明治2年)10月2日:下総国開墾局知事 北島秀朝が粟野村で「初富」の地名を公式に宣言する。「初富」という地名は「一番始めに開墾が行われ、富み栄えてほしい」という祈念により命名された。
1869年(明治2年)10月27日:午前5時頃、入植者第1陣49世帯169人が初富に到着。以下、年内に第5陣まで順次入植し総勢311世帯、1136人。その名簿「初富農舎人員帳」は財団法人三井文庫に保存されている。
1869年(明治2年):初富を皮切りに大規模な開拓事業が行われる。初富に続いて開拓された地名は2番目の二和、3番目の三咲(以上船橋市)、以下、豊四季(柏市)、五香、六実(以上松戸市)、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三に、初富を入れて全13箇所。
1872年(明治5年)5月:開墾事業の失敗で開墾局、開墾会社が廃止される。
1872年(明治6年)5月:湯浅七兵衛が、豊作稲荷神社を勧請。
1872年(明治5年):鎌ケ谷に郵便局創立。三等局。集配区域は鎌ヶ谷・法典・豊富村。
1874年(明治7年):鎌ケ谷小学校が開校。
1882年(明治15年):陸軍が調査・測量した「陸軍偵察録」を著す。抜粋(現代語に訳)「初富・二和・三咲の3村は明治2年に無籍・貧民対策で開墾事業を行い、多く東京の貧民を移住させたが、追々東京に留まるようになり、戸数・人口は次第に減っていきほとんど3分の1になった。そのため一度は畑にした原野もだんだん草野に戻っているところが多い。」
1889年(明治22年):鎌ケ谷・初富・粟野・中沢・道野辺・佐津間の6村と印旛郡根村(現在の白井市の一部)から分村した軽井沢新田が合併して「鎌ヶ谷村」成立。
1909年(明治42年)9月28日:東葛人車鉄道(中山 - 鎌ヶ谷間)開通。
1917年(大正6年):東葛人車鉄道撤廃。このころの交通状況「県道二線南北を過ぐるも、険悪にして交通不便なり」。
1919年(大正8年):このころ鎌ヶ谷駅付近「春の蕨、松露、秋の茸狩に適し、都人士の来遊多し」。
1920年(大正9年):第1回国勢調査で鎌ヶ谷村は戸数686、人口4160(男1996、女2164)
1922年(大正11年)5月22日:村内の鎌ヶ谷尋常小学校、中野尋常小学校、明尋常小学校の3校を統合し、鎌ヶ谷尋常高等小学校を新設。旧鎌ヶ谷尋常小学校を尋常小学校第一分校、旧中野尋常小学校を尋常小学校第二分校、旧明尋常小学校を尋常小学校第三分校とする(高等科は道野辺の本校にのみ設置)。
1923年(大正12年)12月27日:北総鉄道船橋線(現在の東武野田線)開通。
1949年(昭和24年)
1月8日:新京成電鉄新京成線(現・京成松戸線、滝不動駅 - 鎌ヶ谷大仏駅間)開通。
10月7日 - 鎌ヶ谷大仏駅 - 鎌ヶ谷初富駅(現:初富駅)間 (2.1 km) が開業。
1955年(昭和30年)4月21日 - 初富駅 - 松戸駅間 (13.3 km) 開業、新京成線全線(単線)開業。
1958年(昭和33年)8月1日:町制施行。
1971年(昭和46年)9月1日:市制施行。
1976年(昭和51年)11月:市庁舎が現在地に新築移転。
1979年(昭和54年)3月9日:北総開発鉄道(現・北総鉄道)北総線(北初富駅 - 小室駅間)暫定開業。
1991年(平成3年)3月31日:北総開発鉄道(現・北総鉄道)北総線京成高砂駅 - 新鎌ヶ谷駅間開業。
1999年(平成11年)
6月30日:市の方針により、公文書上での地名表記を「鎌ケ谷」と定める。
12月27日:市内の公共施設建設をめぐり、鎌ケ谷市汚職事件が発生。
2001年(平成13年)4月1日:コミュニティバス「ききょう号」運行開始。
2004年(平成16年)4月3日:新鎌ケ谷地区の街びらきが行われる。

江戸時代は「釜原」と呼ばれ、釜原が鎌ヶ谷に転じたという説や、以前は鎌ヶ谷市周辺に蒲(かば)や茅(かや)が自生し、蒲茅が鎌ヶ谷へ転じたという説、鎌形の谷がある地からなど、諸説ある。

市章は、片仮名の「カマガヤ」を図案化したものである。

明治維新直後、政府は東京府の貧窮民・旧武士たちの救済を目的に、東京に隣接する小金牧の開墾を計画し、北島秀朝によって初めに現在の「初富」の開拓が行われることになった。費用を捻出するために開墾会社を設置し、1869年(明治2年)10月に入植者を募集し、同月中から入植を開始した。
入植条件は「下総国牧地開墾場へ移住之者授産向大意規則」に残っている。個別の入植者の事例はほとんど残っていないため、具体的にどのような来歴の人物が入植したかはあまりわかっていないが、「総州牧開墾演説書」(1872年、明治5年)に当時の入植者の前田友七の足跡がよく記録されている。記録を突き合わせると、友七は美濃国各務郡(現在の岐阜県各務原市)出身で、1861年(文久元年)に長女と長男を故郷に預け置いて江戸へ入り、東京本所三笠1丁目(現在の墨田区)に居住していた。その後入植者に応募し、1869年(明治2年)11月17日、妻と次男甚太郎とともに初富に入植。入植後に長女・長男を呼び寄せ家族で暮らせるようになったという。
当初の開墾事業は、入植者の多くが農業未経験者だったことや、周辺の村との軋轢、大風雨、干魃などの厳しい自然環境を理由に失敗し、明治5年には開墾局も開墾会社も廃止された。この失敗によって1891年(明治24年)頃まで初富の人口は漸減したが、残った者の地道な努力と、従来の東京窮民ではない新しい開拓者として周辺の村々の農家の子弟が加わったことから、遅々とはしながらも確実な営みとなった。しかし、切り開いた土地の多くが旧開墾会社の社員の所有物となってしまい、入植者たちは小作人とされてしまったことから、入植者と旧社員との係争・訴訟が各地で起こった。たとえば、1876年(明治9年)4月3日には村民が内務卿大久保利通に直訴を行っている。これらの事件を千葉県令船越衛は「県下一の難事件」と呼び、国会議員田中正造が1894年(明治27年)5月にこの件で政府へ質問書を提出するという事態になった。
入植者が起こした裁判はことごとく敗訴したが、千葉県は旧社員から開墾地を買い上げ、安価で入植者へ払い下げるという救済措置を採った。

=== 昭和・平成の大合併 ===
昭和の大合併では、村内から松戸市や船橋市との合併論が、平成の大合併では白井町(現・白井市)の一部住民からの合併論が持ち上がったものの、白井市が単独で市制を施行できる条件が整ったため合併には至らず、現在の市町村制度の基礎が成立した1889年以来、100年以上にわたって一度も市町村合併を行っていない。同様のケースは千葉県内では習志野市、浦安市、富里市、印旛郡酒々井町がある。

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Quelle: Text: Wikipedia – „鎌ケ谷市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: QBK, Public domain – Wikimedia Commons