Heimatgeschichte · Oonojo ·

大野城市: 歴史

大野城市: 歴史

=== 原始、古代 ===
西日本最大の須恵器生産地
当市には北部九州全体に須恵器を供給した大規模窯跡群である牛頸須恵器窯がつくられ、この窯跡は、上大利から牛頸、春日市、太宰府市にまたがる西日本最大規模の須恵器窯跡群であった。6世紀中ごろから9世紀中ごろにかけて、約500基以上の須恵器の窯が営まれ、ここで生産された須恵器は、6・7世紀代は福岡平野、8世紀以降は大宰府を中心に北部九州一帯に広がった。須恵器以外には、7世紀前半ごろを中心に月ノ浦窯跡群、野添窯跡群などで瓦や陶棺などが生産された。
我が国最大の要塞都市
当市内各所で遺跡が発掘されている。663年(天智2年)に白村江の戦いで日本が大敗したのち、665年(天智4年)に天智天皇の命令により、2023年現在の当市域内にあたる大野山(2023年現在の四王寺山)に百済人・憶礼福留と四比福夫の設計による古代山城である大野城(おおののき)を築城し、大宰府防衛を図った。

博多と太宰府の連絡都市
大野村は昔から「博多」との関わりが強く、1750年(寛永3年)には、当郡朝倉地域で作られた年貢米、麦などの諸物資を福岡に運ぶための運河「新川」が開かれた。このことにより、かつて強かった博多との結びつきに加え、「福岡」との連絡も強くなり、筑後の主要な運河となった。しかしおよそ10年間、船による運搬を行なっていたが水量が少なく、船底がつっかえて運搬効率が悪かったため、1762年(宝暦12年)に一部が埋め立てられた。
一方、筑前の日田街道は、博多から太宰府・二日市・甘木などの宿を経て日田へ至る街道で、別名代官道とも称されていた。2023年現在の当市内の経由地は、山田・雑餉隈・筒井・瓦田・白木原・東大利で、中でも雑餉隈は間の宿としてにぎわっていた。この通りを、古い記録には大宰府往還とも記され、太宰府天満宮参詣客や物流関係者などの行き交いが盛んであった。
雑餉隈と山田と下筒井の街道沿いに軒を並べて旅籠屋(旅館)が7軒あり、茶店、酒、味噌、醤油屋や食料品店、雑貨店などがあり、近郊近在の農家からも買物に来て大変賑わっていた。ところが、1889年(明治22年)に駅舎が出来るはずであった九州鉄道(2023年現在の鹿児島本線)の建設に反対したため、旅人は汽車に乗って通過してしまうようになり、1923年(大正12年)の九州鉄道(2023年現在の西鉄天神大牟田線)は雑餉隈の裏山の雑木林の中を通り、春日原駅前には野球場、大運動場が建設され駅前だけは賑やかになった。さらに1932年(昭和7年)には、日田街道の拡幅直線工事によって一級国道3号(2023年現在の福岡県道・大分県道112号福岡日田線)となり、自動車の交通量が増えて人や物資の通過地点になってしまい、宿場町としての往時の繁栄は影をひそめた。

福岡県下一位の養蚕都市
大野村の収繭量は12,344貫(約46.29トン)で、養蚕が盛んだったことがわかる。繭玉数にして2,300万個以上取れていたことになる。古くから養蚕は行われていたが、筑紫郡で本格的に開始されたのは1882年(明治15年)ごろであった。この年、大野村に朝倉郡より専門家を招き、蚕の良好な成長を促す方法を習った。そして、1885年(明治18年)には朝倉郡から製糸教師を招き、座繰製糸を経営するまでに至る。明治20〜30年代には、大規模な養蚕経営が行なわれたが、蚕病の発生などの問題が起こり、生産量は減少した。このため、1904年(明治37年)に筑紫郡内に3ヵ所の共同稚蚕飼育所が開設された。
大正に入ると、一時期は福岡県の奨励もあり、特別に専用の蚕室を作る農家もあったが、 一般には普段使う部屋を片飼育部屋に当てた。1925年(大正14年)大野村村議会での福岡県蚕業試験場の誘致後、現曙町に試験場は完成し、福岡県下の養蚕指導の拠点となった。『筑紫郡の蚕業』によると、1914年(大正3年)に春蚕を手がけた農家は86戸あったのに対し、1923年(大正12年)の春蚕では235戸に伸び、その数は約3倍となる。1927年(昭和2年)の農家の総数が495戸であったことを考えると、多くの農家が養蚕に携わっていたことが分かる。
その後、1935年(昭和10年)試験場に付設していた福岡県繭検定所が独立し、蚕業試験場の隣に別の庁舎を建てている。このように明治から昭和の初期にかけて、少しずつ養蚕の技術や取り巻く環境は進歩していき、蚕業はその最盛期を迎えた。2023年現在では1929年(昭和4年)の福岡県蚕業試験場、1935年(昭和10年)の繭検定場があった場所には大野城市役所、博多織の名代店であった具島織物の紡績工場の場所にはイオン大野城ショッピングセンター、雑餉隈町の雑餉隈生繭市場はほとんどが住宅地となっている。

第二次世界大戦中は福岡市から当時の大野村に疎開する者がいた。大野町に町制後、福岡市に隣接し幹線道路や鉄道が通るなど好立地だったこともあり、昭和30年代から昭和40年代にかけて人口急増に拍車をかけ、ベッドタウン化が進んだ。その一方で、終戦後から1972年頃まで鹿児島本線の線路を跨いだ当市の一部と隣接する春日市に在日米軍基地が存在した。かつては雑餉隈(第二の中州)と呼ばれ、ヨシムラジャパンや日本ソフトバンク等の有名企業が創業された歓楽街であった。
米軍の撤退後は次第に活気が衰えていった。銀天町商店街という商店街があり、歓楽街であったが、営業地区が通学路などに重なっており、保護者からの苦情が多数あったことなどから、風俗営業法の改正を機とした警察の取り締まり強化により違法店舗が徹底的に摘発され閉店し、ほぼ壊滅状態となった。さらに御笠郡、那珂郡、席田郡が統合された時、雑餉隈地区には郡役所が配置され、福岡地域の中心地域となっていたが、隣の福岡市の急速な都市化に伴い、次第に福岡市への人口流出が加速した。
その後の昭和時代、九州大学の筑紫地区への全面移転が計画されていたが、当時、学生運動が盛んだったこともあり地元の反対により断念し、2023年現在の形となった。全面移転計画当時は春日原地区とも呼ばれていた。また、西鉄の高架工事は昭和時代には既に計画があったが、春日原地域の商店街による商店街の通過点化を危惧したため、結果として工事完了までに70年ほどを要した。
国鉄雑餉隈駅の建設や九州大学の全面移転、繁華街の規制、高架化工事の反対運動などの活動が活発であったために、近隣地域と比較して成長が停滞していたことが現代にも通ずる課題となっていた。

市制施行前は元々「大野町」という地名であったが、1972年(昭和47年)の市制施行にあたり福井県大野市が存在していたため「大野市」とすることができず、この城の名にちなんだ「大野城」という市名にした。2023年現在でも福岡市のベッドタウンとして、人口は年々増加傾向にある。
2017年(平成29年)には「シティブランド・ランキング - 住みよい街2017 -」において、同率1位に守谷市・武蔵野市と当市が選ばれた。2022年(令和4年)には、市制施行50周年を迎えた。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „大野城市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: そらみみ (Soramimi), CC BY-SA 4.0 – Wikimedia Commons