鹿屋市: 歴史
おおむね旧鹿屋市、特に旧鹿屋町の範囲を中心とした内容である。
市名の由来は、『鹿屋市史』によるといくつかの説があるといわれている。
『古事記』、『日本書紀』に登場する「熊襲(くまそ)の首長鹿文(かや)」の名によるという説。
周辺に多く自生していた茅(ちがや)の名が、「かのや」に転訛したという説。
鹿(しか)が多く棲息しておりそこから「かのや」になったとの説。
歴史的にみると、平安時代初期には「かのや」の地名で呼ばれていたということである。
縄文時代早期から人の定住があり、弥生時代には王子遺跡といった大規模な集落がみられるようになる。王子遺跡などで検出された竪穴建物の中には、特徴的なものとして宮崎県南部を中心に分布する「花弁形竪穴建物」がある。
古墳時代には南九州地域独自の地下式横穴墓がみられるようになるが、志布志湾沿岸に点在する前方後円墳は肝属川下流の串良町・吾平町でみられるのみで、旧鹿屋市・輝北町では他の鹿児島県内の地域と同様に存在しない。
7世紀ごろは隼人の全盛期であり、ヤマト王権が勢力を拡大する中現在の鹿児島県本土は半独立の状態であった。ただし隼人の一部は早くからヤマト王権とのつながりを深めており、国造・県主となった者も存在した。713年に大隅国が設置されても完全にヤマト王権に服属せず、約6年後(720年)には大隅国国司の陽侯史麻呂を殺害した隼人の反乱が勃発した。ヤマト王権はこれを1年半をかけて制圧し、大隅の支配体制を確立した。班田収授法が大隅国で実施されたのは800年のことであったが、すでに班田収授法は壊滅状態であり、大隅国内のほとんどの領地が荘園 となった。
律令制では大隅国に属し、鹿屋市の大部分は姶羅郡(現在の姶良郡とは別)・大隅郡(明治時代に消滅、大隅国設置当時の範囲は現在の大崎町から鹿屋市南部にかけての肝属川流域)となった。なお、当時の肝属郡は大隅半島最南部(現在の南大隅町・肝付町など)に位置しており、中世以降に姶羅郡も肝属郡に含まれるようになった。曽於郡は現在の曽於市・垂水市北部・霧島市東部を範囲としていた。
平安時代中期(930年代)の辞書『和名類聚抄』には、姶羅郡の郷として「鹿屋」「串伎」、大隅郡の郷として「姶﨟」がみられる。地名としての「鹿屋」はこれが初出である。
984年(『高城町史』 では968年)に肝付氏の祖、伴兼行が薩摩国惣追捕使として下向し、子孫である兼俊が高山(現在の肝付町)へ移住した1036年に肝付氏を名乗る。肝付氏は島津荘などの荘園を実質的に保有していたが、1185年に島津忠久が地頭として島津荘を管理することとなり、ここからおよそ400年にわたる肝付氏と島津氏の争いが幕を開けることとなった。
713年 - 大隅国設置。
720年 - 隼人の反乱が勃発。
800年 - 大隅国内で班田収授法を実施。
984年 - 伴兼行が薩摩国惣追捕使として下向。
1026年 - 島津荘が開発される。
1036年 - 伴兼行の子孫の兼俊が肝付氏を名乗る。
1185年 - 島津忠久が地頭として島津荘を管理する。
正和年間(1300年代初め)に鹿屋院は肝付氏の一族である鹿屋氏によって統治され、鶴亀城(後の鹿屋城)を現在の城山公園の位置に置いた。肝付氏とは島津氏の後継者争いがきっかけとした応永の戦で対立したのを除いてほぼ行動を共にしている。
南北朝時代には荘園が崩壊し、肝付氏は南朝側(公家側)につき、守護大名となった島津氏と対立した。高須港はこの頃から1573年に至るまで肝付氏の一大拠点として機能するようになり、大姶良は禰寝氏支配地との境界線上になったことから多くの山城が築かれた。
戦国時代中の1535年に島津氏の内紛が勃発し、肝付氏は島津氏と再び対立した。一時期は島津氏を上回るほどの戦力を保有していたが次第に衰退し、一時は肝付氏側についた禰寝氏が島津氏側に翻ったことが決定打となり 1574年に島津氏に降伏した。島津氏は1577年、伊東氏も降伏させたことで三州(薩摩・大隅・日向)をほぼ統一し、鹿屋氏も肝付氏とともに衰退をみることとなった。
この後、鹿屋を中心とした肝属川流域は「他地域の人間による支配下」に置かれることになる。『鹿屋市史 上巻』(1967年版)では島津氏を悪者と見立て大隅への圧政を強調している が、圧政自体は薩摩藩領内で共通する事柄である。
肝付氏亡き後の肝属は、伊集院忠棟が鹿屋城を拠点に地頭として管理した。忠棟は鹿屋城の修復・城下町の形成を始めとして水田開発などによる農業生産の向上、市(いち)の開催を手掛けた。後述する定期市はこのときに始まったものである。
薩摩藩は外城制(後に○○郷と改称)を敷き、現在の鹿屋市域では鹿屋・大姶良・花岡・高隈・串良・姶良・百引・市成の8郷(花岡と市成は私領)がおかれた。外城の成立時期は地域により異なり、鹿屋郷(外城)の場合は、私領を経て1645年に成立した。郷は1889年の町村制施行の際にもほぼそのまま村となるなど、後世まで行政区域として機能した。鹿屋市域では「南部(吾平町)」(『鹿屋市総合計画』による地域区分、姶良郷)、「高隈地区」(『鹿屋市総合計画』による地域区分、高隈郷)がその名残を伝える。
鹿屋郷では定期市が月6回開催され、大隅半島各地を始めとして薩摩半島側の指宿からも集客があった。当時は島津氏御用達の銘酒として「桜川」が存在したが、幕末と1882年頃の火災や時代の推移とともに衰退した。名産品として鹿屋・大姶良で生産された「高須甘藷」(高須港から出荷されたため「高須」といわれた)があった 。
薩摩藩領内の農民は農業以外の職に就くことが許されず、年貢も8公2民(収穫のうち8割が徴収される、他藩は4公6民が一般的)という高率であった。この他にも衣食住全般にわたって制約が課せられており、百姓一揆を起こす余裕すらなかった。逃亡者も数多く発生し、薩摩半島(西目)側から農民を強制移住(人配、「にんべ」と読む)させることもあった。このような壊滅的ともされる 経済状況は、明治期になってから改善されることとなる。
この時期の困窮具合を証明する資料として人口の比較が挙げられる。鹿屋郷には1801年時点では6,224人いたのに対し、1824年時点では6,180人に減少しており、逃亡や間引きが横行していたことが推測される。 …