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可児市: 歴史

可児市: 歴史

=== 古代 ===

古く有史以前から集落が存在し、市域には国の史跡に指定されている長塚古墳や県下最大級を誇る次郎兵衛塚一号墳をはじめとした、多くの遺跡や古墳が存在する。また、弥生時代から近世にまで至る柿田遺跡からは、古墳時代に行われた大規模な河川工事の跡が検出された。
倭王権との関りも古く、日本書紀によれば景行天皇4年に景行天皇が美濃に行幸した際に、現在も久々利地区に史跡が残る泳宮(くくりのみや)を仮宮としたとされる。その際、崇神天皇の皇子でこの地方を支配していた八坂入彦命の娘八坂入媛命を見初め、后にしたと伝えられる。
律令制下ではこの地域は美濃国に属した。飛鳥池工房遺跡からは飛鳥時代の出土品として『三野国加尓評久々利五十戸』と書かれた木簡が見付かっており、古くからこの名称で呼び習わされていたことが判明している。
7世紀頃にこの地方に須恵器の製法が伝えられると、近隣の多治見市域や土岐市域などと同様に窯業が発達した。これが美濃焼の原型で、経路となっていた東山道の街道を通って日本各地にもたらされた。

鎌倉時代に入ると、源氏一門の大内惟義が美濃守として就任するが、惟義亡き後の1221年に承久の乱が勃発するとその子惟信は後鳥羽院方に組した。惟信は筑後有長、糟屋久季らと共に2000騎を駆って木曽川北岸に布陣し、幕府方と大井戸渡(現在の土田地区)で戦闘。しかし、武田信光ら東山道軍の大軍に破れ、大内氏は滅亡した。その後、美濃は北条氏らの支配下となった。
元弘の乱により鎌倉幕府が滅びると、足利尊氏に従い戦功を挙げた土岐頼貞が美濃国守護となった。以後戦国時代に入るまで土岐氏が代々美濃国守護となり、可児市域も土岐氏の氏族の支配下となった。主なところでは後に明智光秀を出した明智氏を始め、瀬田氏、羽崎氏などが挙げられる。
応仁の乱後には東山道が通う交通の要所であると共に、天然の要害である盆地に位置していることから軍事拠点にもなっていた。烏峰城(後の金山城)や大森城をはじめ多くの城がこの時期に築かれている。またこの頃には東山道の宿場として土田宿が成立しており、木曽川の渡し場が置かれていた。

森氏は第6代目の氏清が室町時代初期に土岐氏の被官となって以来、代々土岐氏に仕えていた。しかし第15代目の可成の代に土岐氏は斎藤道三に追われて没落したため、以後は織田信長に仕えた。
1565年、美濃を制圧した信長は武功のあった可成に烏峰城を与えた。可成はこの城を拡張して金山城と改名し東濃への拠点としたが、1570年の浅井氏・朝倉氏との戦いの最中に戦死した。家督を次男の長可が継ぎ、成利(蘭丸)ら弟達と共に信長に従戦した。
1582年の本能寺の変により信長と弟達が没したため、長可は領地として与えられていた信濃海津城から退去し金山城に帰還した。しかし苗木城の遠山友忠が美濃の諸将と内応して長可打倒を掲げたため、長可は羽柴秀吉を後ろ盾として対抗した。長可は大森城の奥村元広や久々利城の久々利頼興など敵対した諸将を次々と征伐。翌年には苗木城を攻めて遠山友忠を追放し、可児市域を含む東濃一帯を支配下に収めた。
長可は1584年の小牧・長久手の戦いで戦死し、森氏の家督は末弟の忠政が継いだ。秀吉が没すると忠政は徳川家康に接近し、1600年に家康より信濃国川中島13万7,500石を与えられた。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍勢に属して第二次上田合戦に参戦している。戦後、その功績により森氏は美作津山藩に加増転封となった。
安土桃山時代中には久々利地区で志野焼が発祥した。かつて志野焼は瀬戸が産地であるとされていたが、1930年に荒川豊蔵が久々利大萱牟田洞の古窯跡で志野焼の陶片を発掘し、この地で生産されていたことを実証した。

関ヶ原の戦い後、市域は尾張藩領と幕府領(天領)、千村氏をはじめとする尾張藩に属する久々利九人衆の領地が混在するようになった。また金山城近辺には武蔵松山藩より松平忠頼が転封されて金山藩が成立した。しかし翌1601年、松平忠頼はさらに遠江浜松藩に加増転封となり、金山藩は成立後わずか1年足らずで廃藩となっている。
その後の1604年、小早川秀秋の家老であった平岡頼勝が家康に登用されて市域内に1万石が与えられ、徳野藩が成立した。頼勝は美濃郡代となり、陣屋として徳野陣屋を築いた。しかし、子の第2代藩主・平岡頼資の晩年から家督争いが発生し、後継の指名がないまま1653年に頼資は世を去った。死後、幕命によって徳野藩は改易・廃藩となった。
江戸時代の特記すべき事項として、塩村(現在の塩地区)におけるキリシタン弾圧が挙げられる。幕府は島原の乱以後キリシタンの取り締まりを強化していたが、1661年、塩村にキリシタンが多数存在することが発覚した。そのことを知った領主の林権左衛門は尾張藩主・徳川光友に捕縛を依頼し、信者24名が捕えられた。これを端緒に尾張藩の各地でキリシタンが露見し、1,000人以上の大検挙へと繋がった(濃尾崩れ)。塩村ではこの後の1697年にも30余名が検挙されている。
また、土田では幕末期の1819年よりビードロの製造が行われた。これは長崎でビードロの製法を学んだ石塚岩三郎が故郷の下総への帰途の途中、土田の娘と結ばれたことが縁となってこの地で製造を始めたことに由来する。石塚岩三郎が営んだビードロ屋は現在の石塚硝子であり、東海地方におけるガラス製造の発祥となった。

この時代には東山道が中山道として整備され、当初は土田宿もその宿場に指定された。しかし、木曽川の流れが変化したため渡し場は上流に移動し、太田の渡し(現在の今渡地区)が整備されて使われるようになった。それに対応して対岸に太田宿が新設されたことで土田宿は重要性を失い、1694年に伏見宿と代替する形で廃宿になった。ただ完全に機能が失われたわけではなく、その後も名古屋城下から太田の渡しまでを繋ぐ上街道の一宿場として細々と存続したようである。
一方で太田の渡しには多治見街道や土岐街道も接続し、年貢米や美濃焼などを運ぶ人々が多く往来した。この時代の運送は水運が大きな役割を担っており、上流の兼山湊と共に栄えていた。流れが速い太田の渡しは中山道の難所とされ、馬子唄に『木曾のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい』と唄われた。

明治維新後の廃藩置県により市域は岐阜県に含まれ、1889年の町村制施行時に市域には1町7村が発足した。
1900年に中央西線の名古屋~多治見間が開通すると、物流は木曽川の水運から鉄道を利用した陸運に変化していった。それを受けて、明治末期より平井信四郎らが中心となって多治見から広見を経由して御嵩に至る鉄道路線の建設が計画された。鉄道は大正年間に完成し当初東濃鉄道によって運営されたが、後に一部は国有化された。昭和期に入ると広見駅が移転されると共に路線が拡大され、現在の太多線・名鉄広見線の路線とほぼ同一となった。

1927年に太田橋が完成したことで長年利用された太田の渡しは役目を終え、代わって木曽川には1939年に今渡ダムが建設された。運輸の中心が陸運に移行したことで木曽川は日本ラインと呼ばれる観光地としての性質を強めた。
太平洋戦争が勃発すると、隣町の御嵩町を中心地として瀬田地区・柿田地区などで亜炭の採掘が活発になり、鉄道や街道を通って運ばれた。また軍需工場として土田村に萱場製作所(現カヤバ岐阜南工場)が誘致され、1943年より生産が始まった。当時萱場製作所は軍用機の油圧脚の約80%を生産しており、市域では初めての本格的な機械工場であった。その他戦争末期には市域西部の丘陵地にて三菱の地下軍需工場の建設が始まったが、これは完成を見ることなく終戦を迎えた。
燃料調達が容易であり街道・鉄道といった運送網が存在したことから、この地域は日本軍の生産拠点として位置付けられていた。しかしそのためにしばしば空襲の標的にもなり、各務原空襲の際にも攻撃を受けている。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „可児市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: きのえもん, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons