泉佐野市: 歴史
市域は日根郡四郷のひとつである賀美郷に比定され、郷名由来の上之郷の集落も現存している。中世になると佐野荘、鶴原荘、長滝荘といった荘園が成立し、1234年(天福2年/文暦元年)には九条家によって広大な日根荘が成立した。1501年(文亀元年)から1504年(永正元年)にかけて九条政基が日根荘へ下向した際に記した『政基公旅引付』(宮内庁書陵部蔵)には、4年間にわたる日根荘の出来事などが詳細に記されており、中世の「村のくらし」を知る貴重な史料となっている。
佐野村では室町時代から熊野街道筋の字市場村に定期市が立つようになった。一方、沿岸部には対馬や五島列島方面まで漁に出るほどの大規模な船団が出現し、玉之浦納の反乱や文禄・慶長の役にも佐野村の漁民が登場する。江戸時代には豪農の中から廻船業を営む者が現れるようになり、なかでも食野家(めしのけ)、唐金家(からかねけ)は井原西鶴の「日本永代蔵」にも登場するほどで、当時の面影を残す「いろは四十八蔵」の一部が今も残る。また食野家が寄進した「八角大梵鐘」が三重県の泰運寺に残されている。
漁業や廻船業が発展し「佐野浦」と呼ばれる港町として活況を呈した佐野村は、集落のおよそ3分の2が浦方で、その規模も岸和田藩浦奉行支配の9ヶ浦のなかで突出していた。また、岸和田藩は領内の民政に関して「七人庄屋」という制度を設けていたが、7人のうち2人を佐野村が占め、藤田家(西の庄屋)と吉田家(東の庄屋)が任ぜられていた。
食野・唐金らの活躍で巨万の富を得た佐野村は、和泉国では堺に次ぐ商業都市(在郷町)となり、人口も岸和田城下6町や貝塚寺内5町を上回るようになった。なお、堺奉行・岸和田城主・願泉寺住職によってそれぞれ計画的に形成された堺・岸和田城下・貝塚寺内と異なり、佐野村の町場は自然発生的に形成されたため、迷路のような街路に特徴があり、古い家並みとともに現在もよく残っている。
江戸時代の和泉佐野は人口1万人前後に達し、これは大きい在郷町の特に多い畿内においても、摂州平野と同様に最大級の規模であった。
第二次世界大戦期の1944年(昭和19年)6月から敗戦までの間、佐野陸軍飛行場および明野陸軍飛行学校佐野分教所が設置されていた。滑走路は1,500m×60mのコンクリート舗装1本で、現在の末広公園や市民総合体育館付近から南東へ伸びていた。飛行場廃止後に滑走路跡に平行して本市葵町や日根野の一部が区画整理された。また、飛行場の設置に伴う灌漑施設の損失を補填するため、現在も当市最大の貯水量を誇る稲倉池および稲倉池用水パイプラインの築造工事が1942年(昭和17年)12月から着工されたが、戦局の悪化と敗戦の影響で、竣工は1957年(昭和32年)にずれ込んだ。
1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、日根郡佐野村が単独で施行。
1896年(明治29年)4月1日 泉南郡が成立。
1911年(明治44年)10月1日 佐野村が町制施行。泉南郡佐野町となる。
1937年(昭和12年)4月1日 泉南郡北中通村を佐野町に編入。
1948年(昭和23年)4月1日 佐野町が大阪府下で14番目に市制施行(八尾市と同日)。いったん佐野市となるが、栃木県佐野市が5年早く市制を施行していたため、泉州の「泉」を冠し「泉佐野市」へ即日改称した。和泉国の「和泉」ではなく泉州の「泉」を冠しているのは泉大津市の先例に拠る。市制施行から半世紀余り経過した現在でも、市民や泉州地域の人々からは単に“佐野”と呼ばれることが多い。
1954年(昭和29年)4月1日 泉南郡南中通村、長滝村、上之郷村、日根野村、大土村を泉佐野市に編入。現在の市域となる。
1994年(平成6年)9月4日 沖合に関西国際空港が開港。
1995年(平成7年)りんくうタウンがまちびらき。
2002年(平成14年)8月26日 「泉州南広域行政研究会」(2001年5月に泉南市・阪南市・泉南郡岬町により設置)に泉佐野市、泉南郡田尻町が加入し、3市2町による研究会となる。
2003年(平成15年)11月30日 泉州南広域行政研究会が「泉州南合併協議会」(法定協)に改組され、新市名を「南泉州市」とすること、泉佐野市役所を新市の市役所とすることで合意。
2004年(平成16年) 泉佐野市を除く2市2町で同年8月22日に実施された住民投票の結果(反対多数:泉南市・阪南市・田尻町、賛成多数:岬町のみ)を受け、9月30日をもって泉州南合併協議会を解散。
2009年(平成21年)財政健全化団体となる。
2014年(平成26年)財政健全化団体から脱却。