大村市: 歴史
=== 大村藩 ===
大村藩の起源は言い伝えによると藤原氏の遠縁にあたる藤原直純(諸説あり)が900年代前後に東彼杵荘大村に入り、久原(大村市久原町)に屋敷を建てて定住したのが始まり。その後16代領主純伊の際、島原の有馬氏に敗北。所領を失った。
しかしその後は北九州地方の豪族の手を借り旧領を回復。豊臣秀吉以前の大村家は長崎外海地方(現在の出島の起源とも)を領有しており、南蛮貿易も盛んだった。18代領主大村純忠は日本初のキリシタン大名。当然領内のキリスト教信仰は盛んになるが、反面仏教を排斥するというキリシタンの暴徒化もあり、いくつかの寺が焼き討ちされた。
19代(初代藩主)大村喜前の代で関ヶ原の戦いが起きた。大村家は東軍に付き、所領を安堵される。2万7千石の城下町として栄えたが、彼の代よりキリシタン弾圧が始まり、1657年(明暦3年)の郡崩れ(こおりくずれ)では、608名が検挙され、最終的に411名が処刑された。
幕末は明治新政府側につき、最終的に3万石となり、廃藩置県により大村県とされた後、長崎県に統合された。最後の藩主は大村純熈であった。
明治維新の際は明治政府側に立ったため所領を安堵され、明治以降も医学・政治などの分野で多くの偉人を輩出している。
大村藩の領地であった彼杵郡は東西に分割され、1889年の町村制施行によりさらに細分化された。大村藩解体後もしばらくは西彼杵半島方面との繋がりも深かったものの、城下町としての地位を失った大村は衰退をみることとなる。
1897年に熊本の歩兵第46連隊(日本陸軍)が放虎原(ほうこばる)に駐屯し、各種サービス業者が営業を開始したことにより状況は一変する。1923年には海軍航空隊が、1941年にはアジア最大ともいわれた第21海軍航空廠が開設され、大村は「軍都」として発展した。1941年の人口は3万3千人ほどであったが、1943年には6万7千人と倍増し、1942年2月11日に大村町、三浦村、萱瀬(かやぜ)村、福重(ふくしげ)村、鈴田村、松原村の1町5村が合併し市制施行した。
第21海軍航空廠は1944年10月25日の大村大空襲で壊滅し、その後も度々米軍の艦載機等の攻撃に晒されている。長崎市への原子爆弾投下の際には海軍や陸軍の病院があったため(前者は現在の国立病院機構長崎医療センター、後者は現在の市立大村市民病院)多くの被爆者が搬送されてきた。一時期、長崎師範学校(現: 長崎大学教育学部)や長崎医科大学基礎医学部などが大村市内に移転しており学園都市としての発展も期待されていたが、いずれも1949年から1953年にかけて長崎市に再移転している。
大村飛行場の跡地は開墾地となり、1949年(昭和24年)5月25日、大村市に行幸した昭和天皇が視察を行っている(昭和天皇の戦後巡幸)。
皇室関係では、さらに1961年(昭和36年)4月23日、県下視察中の昭和天皇・香淳皇后が市内に行幸啓。九州電力大村発電所を視察している。
戦後は世界初の海上空港である長崎空港や高速道路などのアクセスの利便性を活かしたハイテク産業などの面でも発展を続けている。
1871年(明治4年)
旧暦7月14日(8月29日) - 廃藩置県により、大村県の管轄となる。
旧暦11月14日(12月25日) - 第1次府県統合により、長崎県の管轄となる。
明治初年 - 大村城下各町が合併して大村町となる。
1878年(明治11年)10月28日 - 郡区町村編制法の長崎県での施行により、彼杵郡のうち現在の市域を含む区域に行政区画としての東彼杵郡が発足。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、現在の市域にあたる以下の町村が発足。
大村町、大村(大村の一部)、西大村(大村の残部)、竹松村、萱瀬村、福重村、松原村、三浦村、鈴田村
1925年(大正14年)4月1日 ‐ 大村町・大村が合併し、改めて大村町が発足。
1939年(昭和14年)11月3日 ‐ 大村町・西大村・竹松村が合併し、改めて大村町が発足。
1942年(昭和17年) 2月11日 ‐ 大村町・三浦村・鈴田村・萱瀬村・福重村・松原村が合併し市制施行。大村市が発足。
1963年(昭和38年)7月1日 - 東彼杵町の一部、武留路郷が大村市に編入。
1670年 - 大村藩校集義館(のちの五教館、大村高校)設立
2020年(令和2年)7月6日 - 令和2年7月豪雨により佐奈河内川の護岸が決壊して氾濫するなどの被害。