Heimatgeschichte · Shibata ·

新発田市: 歴史

新発田市: 歴史

阿賀野川・信濃川の流域に拓けたこの地域は、中世には佐々木氏の傍系・新発田氏が領し、この地を流れる新発田川の流域にその水運を生かして城が築かれた。
慶長3年(1598年)、豊臣家の家臣であった溝口秀勝が6万石の所領を得てこの地に移封され、以後幕末まで新発田藩は溝口氏が治め、新発田城の城下町として発展していくことになる。城下では武家町・町人町・寺町などの特徴的な町が形成され、また周辺地域では新田開発によって低湿地の耕地化が進められた。
明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県で新発田県が設置されたが、まもなく新潟県に編入。1878年(明治11年)の郡区町村編制法で阿賀野川以北の地域(阿賀北地域)一帯が北蒲原郡とされると、その郡役所が新発田本村に置かれ、新発田は阿賀北地域の中心地として発展していった。1873年(明治6年)に廃城となった新発田城の跡地には陸軍の歩兵第16連隊が置かれ、以降、明治から終戦までこの町は軍隊の町としての性格を強めた(これは戦後も陸上自衛隊新発田駐屯地として残り、現在に至っている。)。
市制が施行され「新発田市」となったのは、第2次世界大戦後、1947年(昭和22年)のことである。

1875年(明治8年)8月:外城村、小路村、鍛冶上町、下町が合併し、五十公野村となる。
1875年(明治8年)10月:松岡村と松岡新田が合併し、松岡村となる。
1876年(明治9年)8月:合併により滝谷村と下寺内村が発足。

1877年(明治10年)11月:浦村新田が浦村となる。
1886年(明治19年)2月:砂山村と飯島新田地先が合併し、砂山村となる。
1886年(明治19年)4月:浦新田と赤橋が合併し、浦新田となる。
1887年(明治20年)3月:上中山村と中居新田が合併し、上中山村となる。
1889年4月:町村制により新発田本村と新発田町が誕生

1890年(明治23年)3月7日:楠川村が竹ノ俣村に名称を変更。
1901年(明治34年)11月1日:新発田本村と新発田町が合併し、新発田町が発足

1940年(昭和15年)8月:鴻沼村を編入
1943年(昭和18年)5月:猿橋村を編入
1947年(昭和22年)1月1日:北蒲原郡新発田町が市制を施行、新発田市となる(県内では新潟市、長岡市、高田市、三条市、柏崎市についで6番目)
1955年(昭和30年)3月:北蒲原郡五十公野村、川東村、菅谷村、松浦村、米倉村、赤谷村を編入
1956年(昭和31年)3月:北蒲原郡加治川村の一部を編入
1959年(昭和34年)
4月:北蒲原郡佐々木村を編入
12月4日:新潟日赤センター爆破未遂事件
2003年(平成15年)7月7日:北蒲原郡豊浦町を編入。人口が9万人を超え、一時期県下4番目に人口の多い自治体となる(これ以前は柏崎市、三条市についで6番目)。
2005年(平成17年)5月1日:北蒲原郡紫雲寺町、加治川村を編入。人口が10万人を超える。ただし人口規模では同日に新設合併を行った三条市に次いで県下第5位となる。
2017年(平成29年)1月4日:市役所本庁舎を中央町4丁目から、中央町3丁目へ移転。

2003年7月7日、北蒲原郡豊浦町を、2005年5月1日、北蒲原郡紫雲寺町、加治川村をそれぞれ編入合併した。合併後の面積は532.82km2、総人口は106,834人(2003年7月31日住民基本台帳より)となった。平成の大合併以前は県内で同規模の都市である柏崎市や三条市より遅い市制施行ということもあり後塵を拝しており、人口が県下第6位であったが、合併によって人口が柏崎市を越して県下第5位の人口を擁することとなった。その後、2007年4月1日の統計で三条市を抜き、現在は第4位の人口を擁している。

1935年(昭和10年)9月13日 - 上町から出火して延焼して大火になり、1,064戸が焼失。
1951年(昭和26年)1月 - 市内で赤痢患者が集団発生。同年4月1日までに240人が発病。
1966年(昭和41年)7月17日 - 下越水害により加治川や支流の堤防が決壊。
1967年(昭和42年)8月28日 - 羽越豪雨により前年に加治川の堤防が決壊した箇所などが再度決壊。

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Quelle: Text: Wikipedia – „新発田市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Mukasora (talk), CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons