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あま市: 歴史

あま市: 歴史

=== 古代 ===
市内では、弥生時代以降の遺跡が数多く発見されており、これらの遺跡は河川により形成された自然堤防と後背湿地上に存在している。遺跡の分布をみると、弥生時代〜古代〜中世と時代が下がるにつれて、あま市北方から南方へ人々の生活範囲が広がっていることがわかった。
弥生時代後期の遺跡として阿弥陀寺遺跡・森南遺跡が挙げられ、これらの遺跡では発掘調査が行われ住居跡・井戸跡や大量の土器が発見された。特に、阿弥陀寺遺跡においては、環濠をもつ集落であることがわかった。古墳時代には、前方後円墳と推定される二ツ寺神明社古墳が出現するが、被葬者はわかっていない。同古墳西方には、同時期の集落と思われる蜂須賀遺跡が推定される。白鳳〜奈良時代の史跡としては、甚目寺遺跡や法性寺跡・清林寺遺跡・篠田廃寺といった古代寺院が挙げられる。なかでも甚目寺地区にある甚目寺遺跡・法性寺跡・清林寺遺跡の3寺院は、軒瓦の文様などから密接が関係があったとされる。その建立時期は、遺跡の状況から尾張地区でも比較的古い時期(7世紀後半)である大渕遺跡は、甚目寺・法性寺・清林寺の各寺院の創建期に関係があるとされる。この他にも市内各所から埴輪片や須恵器・中世陶器などが発見されている。

甚目寺観音の起源は、記録に見るかぎり文永元年(1264年)の「文永甚目寺縁起」(古縁起)にある。それによると推古天皇5年(597年)伊勢国甚目村(現・松阪市)の漁師の甚目龍麻呂が漁をしていたところ、網にかかった観音菩薩を引き上げた。観音像は金色の金銅仏である聖観世音菩薩で、龍麻呂は引き上げた観音様を祀る草庵を建てたことが甚目寺観音の始まりとされる。この観音像は、善光寺如来の脇侍であるとも記されている。甚目という苗字は『正倉院文書』や『日本三代実録』にもあって、『正倉院文書』には奈良時代の天平6年(734年)に中島郡に「甚目氏」の記述が見られる。さらに『日本三代実録』には平安時代の貞観6年(864年)に海部郡に「甚目氏」の記述がある。このことから「甚目氏」と甚目龍麻呂との直接的な因果関係はわかっていないが、「甚目氏」は甚目寺観音周辺に遅くとも奈良時代以降には居を構えており、都の記録に登場するほど有力な氏族であったことがわかっている。

鎌倉時代、幕府の所在地である鎌倉から全国へ放射状に広がる道である、いわゆる鎌倉街道の従来が激しさを増すと、その宿場町のひとつである萱津宿においても多くの人々や物資が行き交うようになった。こと萱津は、五条川と庄内川の合流地点で、さらに伊勢から津島を経由して萱津につながる西の道との接点でもあり、まさに水陸の合流点と立地的に恵まれた土地であり、尾張の政治経済の中心地のひとつとして栄えた。幕府の高官をはじめ多くの旅人が萱津宿に立ち寄り、紀行文などにその記録を残している。編年で紹介すると以下の通りである。

文治2年(1186年) - 北条時政、頼朝の派遣した関東御使と会う(『吾妻鏡』)
建久6年(1195年) - 京都から鎌倉への帰途、将軍頼朝が宿泊(『吾妻鏡』)
貞応2年(1223年) - 市腋、津島を経て宿泊(『海道記』)
暦仁元年(1238年) - 将軍藤原頼教宿泊(『吾妻鏡』)
仁治3年(1242年) - 市が開かれた様子を綴る(『東関紀行』)
建長4年(1252年) - 将軍宗尊親王宿泊(『吾妻鏡』)
弘安2年(1279年) - 阿仏尼、鎌倉へ向かう途中に立ち寄る(『十六夜日記』)
弘安3年(1280年) - 飛鳥井雅有宿泊(『春能深山路』)
弘安6年(1283年) - 一遍ら甚目寺にて断食行法(『一遍上人絵伝』)
およそ100年の間に少なくとも4人の鎌倉幕府将軍が萱津に宿泊するなど、時の権力者を迎え入れるほど萱津は宿場として立派に機能していたことがわかる。『吾妻鏡』の建久6年(1195年)の記事によれば、源頼朝が萱津宿に立ち寄り、ここで尾張守護小野成綱の接待を受けたことが記され、同書には引き続き4代将軍の藤原頼経、6代将軍の宗尊が京都〜鎌倉従還の際の宿泊所として利用したことが記されていることからも、萱津宿は尾張を通る鎌倉街道の宿場のなかでも、重要な位置をしめていたことが推察できる。

戦国時代では、蜂須賀正勝、福島正則をはじめ、蜂須賀正勝の実子の蜂須賀家政、そして福島正則の実弟の福島高晴が城持ち大名となっている。この他にも大名にまでは至らないものの、福島正則の参謀として名高い福島丹波や、赤林孫七郎など戦国時代に活躍した武将を多く輩出している。
16世紀、尾張の政治経済の中心地は下津から清洲城へと移り、萱津はこれまで通り宿場としての機能を果たすが、戦国時代に合戦場として登場する(萱津の戦い)。その戦いについて『安土創業録』を見ると、天文20年(1551年)織田信友が斯波義廉を倒し清洲城を奪うや、那古野に在城する信長は、その仇を討つべく出陣、稲葉地より川を越え、萱津の民家を放火せしめた。そこへ清洲城より織田信友勢が打ち出し合戦となった、とある。結果は信長軍の勝利に終わるが、この戦いは詳しくは記されていない。この戦いは僅か数時間のもので『信長公記』には「海津(萱津)口へ御かかり候。八月十六日辰の刻、東に向かってかかりあい、数刻火花を散らし相戦い」と出てくるのみであった。

==== 尾張七宝のはじまり ====

この地方で七宝が作られるようになったきっかけは、江戸時代末期の天保4年(1833年)、梶常吉によってもたらされたといわれている。梶常吉は、享和3年(1803年)、尾張藩士梶市右衛門の二男として生まれ、文政5年(1822年)、海東郡服部村(現在の名古屋市中川区)に移り住み、鍍金業を営んでいたといわれている。あるとき、七宝焼のことが書かれた本がきっかけで七宝焼に興味を持って独学で研究するが、その仕組みを知ることはできなかったが、常吉は天保3年(1832年)に名古屋市末広町の骨董商松岡屋嘉兵衛の店先でオランダ船が運んできたという七宝焼を入手し、砕いてその仕組みや原料を分析した。研究を重ねて合子や筆立て、文鎮などの小物類を製作した。これが尾張地方における近代七宝のはじまりといわれている。海東郡遠島村(現在のあま市七宝町遠島)の農家に生まれた林庄五郎は、安政3年(1856年)に梶常吉から七宝焼の製法を学び、同じ村の人々に伝えた結果、この地域で七宝焼の製造が盛んになった。

昭和
1953年(昭和28年)の「町村合併促進法」と、続く「新市町村建設促進法」によって全国で町村合併が推進された(昭和の大合併)。これに伴い、1954年(昭和29年)に甚目寺町は名古屋市へ合併を働きかけるが、名古屋市の巨大化を懸念する愛知県がこれに反対し、この合併を認めなかった。愛知県はこの地域の合併試案として甚目寺町と大治村で一つに、美和村、七宝村、神守村での合併を推進していた。1956年(昭和31年)、美和村が甚目寺町に合併を申し入れるが、合併方法を巡る双方の食い違いもあって議論は6ヶ月にわたって行われるも合併には至らなかった。一方で七宝村と大治村の合併話も浮上したが、こちらも合併には至らずに現状維持となった。

平成
2008年(平成20年)5月1日には、七宝町・美和町・甚目寺町・大治町の4町で「海部郡東部四町合併研究会」を設置。大治町の離脱が11月5日に発生し、これにより「海部郡東部四町合併研究会」は解散。それに代わって同月に「七宝・美和・甚目寺町合併研究会」を設置。2009年(平成21年)4月に法定合併協議会へ移行。7月の第8回合併協議会において、6点(西名古屋市、名西市、海部市、海東市、あま市、西尾張市)の名称候補の中から、旧3町の住民の投票をおこない、最多得票が「名西市」となったものの、その後の合併協議会委員の選考で、「あま」という名前を残したいという理由で、最も投票数が少なかった「あま市」に決定され、住民が投票を行った意味がなくなってしまうという結末を迎えた。
2010年(平成22年)3月22日、あま市が誕生した。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „あま市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: アラツク, CC BY-SA 4.0 – Wikimedia Commons