横手市: 歴史
=== 地名の由来 ===
「横手」という地名の初見史料は、南北朝時代である文和2年(1353年)6月17日付の箟峯寺(陸奥国遠田郡、現・宮城県遠田郡涌谷町)十一面観音像胎内経であり、「山北平賀横手」との記述が見られる。
地名の由来については、江戸時代にこの地を訪れた菅江真澄が「雪の出羽路 平鹿郡」にて、川の氾濫を防ぐために築いた「横土堤・横土手(よこどて)」が転化して「横手」になったのではないかと書き残している。また、普通名詞の横手は「横の方面」を表すものであることから、単に「(本郷方面から明永見入野方面に至る通路、もしくは関根方面より御嶽山に向かう通路の)横の方向にある集落」を意味しているのではないかという説もある。
横手に人が住み始めたのは旧石器時代で、市内では10か所の遺跡から旧石器時代の石器が発見されている。縄文時代前期に当たる6,000年~5,500年前の時期からは竪穴建物からなるムラが発生し、定住生活が始まった。横手盆地において集落跡が確認されているのは前期後半期からで、根羽子沢遺跡(雄物川町大沢)などが確認されている。この時期の遺跡は丘陵地帯や台地上に立地していたが、中期以降は寒冷化が進み、川の流路変動の影響が少なくなると、中期後葉から末葉期にかけて沖積地を中心とした平野部へと進出していった。
弥生時代の遺跡は、手取清水遺跡(塚堀)などがあり、弥生時代中期の集落跡が確認されているが、全体としてこの時代の遺跡は少ない。当時は寒冷な気候であったことから、横手盆地においては稲作文化は定着せず、大規模な集落が営まれることもなかった。古墳時代の遺跡は、オホン清水B遺跡(塚堀)や一本杉遺跡(平鹿町下吉田)などが挙げられる。オホン清水B遺跡では、竪穴建物跡や須恵器有蓋高坏、土師器が見つかっており、この時代に横手盆地において古墳文化の集落が営まれていたことを示す。また、この時代の遺跡は横手盆地の中でも現在の横手市域に偏在しており、現在の国道107号に沿った形で、南方からではなく日本海側からの東西のルートで古墳文化が伝播してきたことが推測される。
奈良時代になると現在の東北地方まで朝廷の勢力が及ぶようになり、和銅元年(708年)には庄内平野を中心として出羽郡が建郡された。和銅5年(712年)には出羽郡を核として出羽国が設置され、8世紀半ばの天平5年(733年)に雄勝郡が、天平宝字3年(759年)に平鹿郡が設置された。平鹿郡は現在の横手市域に相当するが、この時点では山本郡(後の仙北郡)は成立しておらず、平鹿郡の郡域が山本郡にも及んでいた可能性もある。また、雄勝・平鹿の2郡設置と同時期に、藤原朝狩により天平宝字3年(759年)までに雄勝城が築造された。雄勝城の正確な位置は不明で、同時代の遺構は確認されていない。現状、候補地としては雄物川地域の造山地区が挙げられており、同地区の十三塚遺跡からは秋田城や払田柵跡と同様に古代の瓦が出土しており、官衙建築や寺院との関連が推測される。
永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)にかけて行われた後三年の役では、現在の横手市域において沼柵や金沢柵が主な戦場となった。藤原清衡と清原家衡の対立が深まり、家衡は沼柵に立て籠もって戦ったとされる。後に家衡は金沢柵へと移り、清衡がこれを滅ぼした。
後三年の役で勝利した清衡は、奥州随一の地元勢力となったが、4代目の泰衡が奥州合戦で源頼朝に滅ぼされ、奥州藤原氏の世紀は終りを迎えた。その後、鎌倉幕府による支配が進み、奥羽地方には多くの鎌倉御家人が入部した。平鹿郡地頭には、幕府吏僚の大中臣惟重が任じられ、惟重の娘と松葉資宗の間に生まれた惟泰が、外祖父である惟重から平賀郡地頭を譲渡したと推定されている。松葉氏は尾張国の御家人で、資宗の長男朝宗が松葉氏の系統を継ぎ、次男である惟泰は平賀氏を名乗り、以降平賀惣領家を代々名乗ることになる。平賀氏の所領支配を伝える史料は少ないが、鎌倉時代から南北朝時代にかけて周辺一帯を所領していたと推定されている。
同じく、雄勝郡において雄勝郡の地頭職を得た小野寺氏は、雄勝郡稲庭を本拠とし、やがて「屋形」と呼ばれるようになり、勢力を拡大した。横手市域への小野寺氏の進出は、大永年間(1521年~1528年)に小野寺稙道が稲庭城(雄勝郡)を弟である晴道に譲り、沼館城へと本拠地を移したことに始まる。沼館城は戦国時代に起こった後三年の役にて戦場となった「沼柵」を改修したものだとされており、 雄物川右岸の段丘上に位置する平城であった。ただ、稙道はわずか数年で本拠地を湯沢城へと移した。役内方面への警戒が高まり、沼館は軍事的要素が不足していたことが移転の理由と考えられる。本拠地を湯沢へと移した稙道は、天文21年(1552年)に横手で起こった平城の乱にて敗死した。平城の乱は、横手佐渡守光盛と金沢金乗坊が逆心を企てたことで発したもので、これに気づいた稙道は平城を攻撃したが、逆に湯沢城へ攻め立てられて敗死した。
稙道の息子である輝道(後に景道と改名)は、稙道が本拠地とした平城ではなく、これより北東約800m離れた丘陵上に新たに城を築いた。ここが市民から通称「お城山」と呼ばれる場所で、このときに横手城が築かれた。その後、豊臣秀吉による奥州仕置に際し、小野寺氏は太閤検地に反対する仙北一揆が領内で起きたことを咎められ、天正19年(1591年)に自領の3分の1(湯沢・増田を中心とする地域)を没収されることになり、代わりに最上氏の支配下に入ることになった。関ヶ原の戦いが行われた慶長5年(1600年)には、出羽国においても合戦が勃発し、この合戦において小野寺氏は最上氏に降伏し、横手城を開城することになった。慶長6年(1601年)に小野寺氏は改易となり、横手盆地から小野寺氏が去ることになった。
小野寺氏が改易された後、秋田には慶長7年(1602年)に佐竹義宣が入封し、それまで秋田実季が居城としていた土崎湊城(現在の秋田市内)に入城した。横手には城代が置かれ、5代からは戸村氏一族が明治まで城代を継続することになる。なお、平鹿郡内においては、豊臣仕置軍により支城の大半が破却されており、小野寺氏が改易された際には横手城・浅舞城・大森城などが残されるのみだった。元和6年(1620年)には一国一城令が秋田に適用された際、ほとんどの城が破却されるも、秋田の場合は例外として久保田城のほかに横手城、大館城の存続が認められた。これ以降、横手城下は城下町として整備されることになる。佐竹家家臣は人為的な土木工事を行い、蛇行する横手川を付け替えたり、土地の高低差を均すなどした。これにより、横手川右岸(横手城側)には武士や足軽の住む「内町」、横手川左岸には商人や職人が住む「外町」が形成された。また、横手城下には羽州街道をはじめとする街道が各方面へと伸びており、横手は平鹿郡における中心都市としての地位を確立した。横手城は、江戸時代末期の慶応4年(1868年)に起こった戊辰戦争において、庄内藩を中心とする旧幕府軍に制圧され、慶応4年8月11日に落城した(秋田戦争や横手の戦いも参照)。
==== 明治 ====
明治5年(1872年)7月1日 - 横手郵便取扱所(横手郵便局の前身)が設置される。
明治10年(1877年)3月 - 横手警察署が発足。
明治15年(1882年)10月 - 平和街道が開通。
1889年(明治22年)12月15日 - 公立横手病院(現・市立横手病院)が開院。
1903年(明治36年)9月7日 - 平鹿郡公会堂にて平鹿郡立図書館(後の横手市立図書館)が開館。
1905年(明治38年)
6月15日 - 奥羽北線大曲駅 - 横手駅間が開通。同日横手駅開業。
9月14日 - 奥羽北線・南線が十文字駅(平鹿郡十文字村)で繋がり、奥羽本線として全線開通。
1911年(明治44年)11月23日 - 平鹿郡増田町の増田水力電気株式会社から電気供給が開始され、横手町にも電灯が灯る。
1918年(大正7年)8月18日 - 羽後交通横荘線横手駅 - 沼館駅間が開業。
1920年(大正9年)10月 - 西横黒軽便線(現・北上線)横手駅 - 相野々駅間が開業。 …