中津市: 歴史
=== 古代 ===
国道10号南側には条里制による条里地割の跡が現存しており、古代から中津平野の開発が行われていたことがわかる。
日本神話に出てくる豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)はこの地であり、豊の国や中津という地名はその名残であるとする説があるが、一般に受け入れられていない。
城下町としての歴史は、1587年(天正15年)に黒田孝高が豊臣秀吉から豊前6郡(京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐)の16万石と馬ヶ岳城(福岡県行橋市)が与えられた後に、拠点を山国川河口部に移し中津城を築城したところから始まる。市街地がほぼ完成したのは1600年代中頃とされる。城主は後に細川氏・小笠原氏を経て、1717年(享保2年)に奥平氏が入封し明治維新を迎えることになる。
廃藩置県により現在の市域は中津県となり、その後小倉県から福岡県となったが、1876年(明治9年)8月21日に福岡県のうち宇佐郡と下毛郡が大分県に編入され、中津支庁が設置されたことで大分県北の中心地として重要性を帯びるようになった。
近代工業の始まりは1879年(明治12年)から1880年(明治13年)にかけて工場が設置されたのが最初とされ、1890年代には繊維工業が集積するようになった。1929年(昭和4年)に大分県で3番目に市制を施行した。
昭和20年代には朝鮮特需を背景に鉄鋼工業の相次ぐ進出で、人口100,000人を維持し続けた。しかし、昭和30年代になると繊維産業の衰退により人口が減少に転じ、さらに石炭産業衰退による北九州工業地帯の相対的地位低下により人口の流出が続いた。一方で窯業関連や自動車関連の工場進出も進み、それに伴う第三次産業の規模も拡大し、1975年(昭和50年)以降は人口が増加傾向に転じた。1984年(昭和59年)には豊の国テクノポリスの中心都市に指定されている。
1985年(昭和60年)に人口が87,700人となったが、以降はわずかに人口は減少傾向にある。
1871年(明治4年)7月14日 - 廃藩置県により、中津藩を廃して中津県が設置される。
1871年(明治4年)11月14日 - 第1次府県統合により旧豊前国の中津県等を統合し、小倉県が発足。
1876年(明治9年)4月18日 - 第2次府県統合により小倉県が福岡県に編入される。
1876年(明治9年)8月21日 - 宇佐郡と下毛郡が福岡県から大分県に編入される。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、現在の中津市域に1町25村が成立。同日に中津町が町制施行。
1896年(明治29年)3月29日 - 福岡県上毛郡高浜村大字小祝のうち山国川支流以東を編入。
1897年(明治30年)9月25日 - 豊州鉄道(現・日豊本線)行橋駅-長洲駅(現・柳ケ浦駅)間が開業し町内に鉄道が開通。町内に中津駅を設置。
1913年(大正2年)12月26日 - 耶馬渓鉄道(のちの大分交通耶馬渓線)中津駅-樋田駅間が開業。
1925年(大正14年)4月1日 - 大江村、豊田村を編入。
1929年(昭和4年)
4月1日 - 小楠村を編入。
4月20日- 中津町が市制施行して中津市が発足する。
1932年(昭和7年)6月12日 - 火災が発生。約300戸が焼失。
1943年(昭和18年)8月8日 - 鶴居村、大幡村、如水村を編入。
1949年(昭和24年)6月9日 - 昭和天皇の戦後巡幸があり、三機工業工場、小幡記念図書館、中津公園、福沢諭吉旧宅などに行幸。
1951年(昭和26年)4月1日 - 三保村を編入。
1954年(昭和29年)10月1日 - 和田村を編入。
1955年(昭和30年)2月1日 - 今津町を編入。
1975年(昭和50年)9月30日 - 大分交通耶馬渓線がこの日限りで廃止。
2001年(平成13年)3月22日 - 中津競馬場がこの日の開催を最後に閉鎖、廃止。
2004年(平成16年)12月 - ダイハツ工業が中津市内に建設していた新工場が操業開始。
2005年(平成17年)3月1日 - 下毛郡(三光村、本耶馬渓町、耶馬溪町、山国町)を編入。
2017年(平成29年)7月 - 九州北部豪雨で被災し災害救助法の適用を受ける。
2018年(平成30年)4月11日 - 耶馬溪町金吉地区で地滑りが発生し住宅が埋没。6人が死亡。
== 行政 ==
奥塚正典(2015年11月17日就任、3期目)
=== 市議会 ===
福岡県太宰府市 - 2014年11月23日友好都市協定締結