四国中央市: 歴史
=== 有史以前 ===
市域で発見された遺跡から、この地方に人が住みはじめたのは1万2000年以上前と考えられる。最初に人が住んだのは金生川流域の丘陵地帯で、その後縄文時代から弥生時代にかけて海岸の平野部に生活の範囲が広がっていった。
古墳時代中期には木梨軽皇子の墓といわれている東宮山古墳が作られている。古墳時代後期の6世紀になると丘陵地帯に古墳が作られるようになった。7世紀前半には四国最大級の石室を持つ宇摩向山古墳が作られた。急峻な山地と狭く長い平野のため、大きな権力を持つ社会の形成は遅かったようである。
大化の改新後、この地域は宇摩郡と呼ばれるようになり、古代官道など交通網の整備によって南海道に伊予国大岡駅が設けられ、中央から伊予・土佐への交通の分岐点となった。この宇摩郡と四国中央市の市域はほぼ一致する。
==== 江戸時代 ====
1636年、一柳直盛が伊勢国神戸藩から西条6万8600石に封ぜ られた。ところが直盛は封地に赴く途上で病没してしまう。直盛の領地は3人の子に分知され、川之江2万8600石は次男一柳直家の所領となった(川之江藩)。しかし直家も1642年に病没し、養子一柳直次への相継が幕府に認められず播磨国へ転封となった。所領は幕府に収公されて伊予松山藩に預けられ、松山藩は川之江代官所を置いて幕府領を管理した。
その後、宇摩郡の幕府領は西条藩や今治藩の所領の代替地として与えられたので、幕末期の宇摩郡は徳川幕府・今治藩・西条藩の領地が複雑に入り組む状態となった。
一説によると宝暦年間(1751年 - 1764年)に宇摩地方の製紙業の基礎が築かれた。
明治維新後の1878年、郡区町村編制法が施行されると現在の四国中央市域に宇摩郡が設置された。郡役所は人口が最も多く、商業施設も集積しており、また天領時代に代官所が置かれた川之江村に設けられた。しかし、位置的には宇摩郡の東端に近かったため、西部の三島・土居の住民が国・愛媛県に郡役所移転を要望し続けた。明治維新後、交通手段が徒歩から船や鉄道に変わると、川之江の交通の要衝としての重要性は相対的に低下した。
1889年 町村制の施行により、郡内の51村が合併し23村になった。川之江・二名・金生・上分・金田・川滝・新立・上山・松柏・三島・中曽根・ 中之庄・寒川・豊岡・金砂・富郷・野田・津根・小富士・土居・満崎・関川・ 別子山(1898年から1952年にかけて、三島・川之江・上分・金生・寒川は町制を施行)
天領だった川之江は、幕末に土佐藩が駐留した縁で、土佐出身の板垣退助率いる自由党系とのつながりが深かった。一方、三島は進歩党系に接近し、進歩党系松方正義政権下の1897年に宇摩郡役所の三島村移転を成功させた。これ以降、「川之江は政友会・三島は改進党(民政系)となり政争のしのぎを削る基となった」。また「各官庁が三島に移ったことが、宇摩郡東西に長くしこりを残す因をなした」とされた。
篠原朔太郎の研究により機械動力を利用した製紙業が行われるようになる。第2次世界大戦(太平洋戦争)後は近代的製紙業の発達とともに急速に発展した。
1950年(昭和25年)3月17日、市域に昭和天皇の戦後巡幸があり、大王製紙や大西製紙の工場を視察。川之江小学校の校庭には川之江町奉迎場を、三島小学校校庭には三島町奉迎場を設けて昭和天皇を迎えた。天皇は伊予三島駅からお召し列車(四国で初の運転)に乗車、伊予土居駅で下車し、同駅前においても奉迎が行われた。
1950年代前半の「昭和の大合併」では、宇摩市構想が持ち上がった。しかし、宇摩郡東部の川之江町・金生町・上分町・妻鳥村・金田村・川滝村が合併し川之江市を成立させたため、実現は断念された。西部の三島町・寒川町・松柏村・豊岡村・富郷村・金砂村は合併して伊予三島市を成立させた。この結果、宇摩郡は、川之江市・伊予三島市、宇摩郡土居町・新宮村・別子山村の2市1町2村に再編された。
2003年(平成15年)には別子山村が隣接する新居浜市と合併した。2004年(平成16年)4月1日、川之江市・伊予三島市・土居町・新宮村が新設合併して四国中央市が生まれた。市名は将来、道州制が導入される場合の道庁所在地ないし州都になる事を目指して決められたという。
2006年(平成18年)3月 - 四国中央テレビがサービス開始した。2008年(平成20年)4月 - 川之江商工会議所と伊予三島商工会議所が合併し、四国中央商工会議所が発足した。2008年(平成20年)7月、四国中央市で第1回書道パフォーマンス甲子園が開催された。2014年(平成26年)4月、愛媛大学紙産業イノベーションセンターが設置された。
2018年(平成30年)9月には四国中央市役所の新庁舎が落成し、新庁舎での業務を開始した。2019年(令和元年)8月、四国中央市民会館三島会館と四国中央市民会館川之江会館を統合し、四国中央市市民文化ホールが開館した。
戦国時代には、四国でも産業が発展し各国の交流が増加した。それに伴い、交通の要衝として戦略的に重視されるようになり、たびたび讃岐・阿波・土佐から侵略をうける。3つの国境に接する市域の東部では特に防衛のための砦が多く築かれ、現在もいくつかの遺跡が残されている。
金生川の河口は川の江と呼ばれ、河口付近の浅瀬を港として利用されるようになった。江戸時代に入ると土佐街道の始点として商業が発達し、港町として発展した。土佐藩が参勤交代の経路として四国山地を越える土佐街道を利用し、宿場町として栄えた。
1985年(昭和60年)3月、四国で初めての高速道路である土居インターチェンジ〜三島川之江インターチェンジが開通した。2000年(平成12年)3月には川之江東ジャンクションの供用が開始され、川之江ジャンクションと併せて四国の「エックスハイウェイ」が完成した。
中曽根町の三島公園には「四国高速道路発祥地の碑」が、柴生町の四国高速道路クロス地点展望台には「四国高速道路クロス地点モニュメント」がある。