姶良市: 歴史
=== 先史時代 ===
姶良市では、旧石器時代の遺跡は蒲生町内に大原遺跡や竹牟礼遺跡などが見られるが、姶良町や加治木町内では確認されていない。縄文時代の遺跡は、縄文海進により低地の大部分は海の中であったため台地の上や微高地に集中している。三代寺遺跡・日木山遺跡・干迫遺跡・鍋谷遺跡・鍋倉遺跡・宮下遺跡などがある。弥生時代以降になると低地にも遺跡が出現する。
713年(和銅6年)4月、日向国の一部を割いて大隅国が設置された。朝廷による支配に対して隼人族は抵抗したため、豊前国から住民を移住させ、桑原郡を建てた。これが現在の姶良郡にほぼ相当する。和名類聚抄によれば、移住させた先として大分(おほきた)・豊国(とよくに)・答西(てふさ)という地名があったとされ、このうち大分は北山、豊国は豊留、答西は帖佐に比定する説がある。一方、大分を蒲生町北とする説もある。
和銅年間には、福岡志賀島から鈴木三郎政氏、四郎政良の兄弟が摂津国の住吉明神(住吉大社)を勧請してこの地にやってきて、住吉地区に神社を築いた。現在でもその子孫とされる人が居住しており、また住吉池という名前の由来でもある。弟の政良は山田地区の開拓を行い、黒島神社を築いている。
大隅国の国分寺に使われた瓦は、船津にある宮田ヶ岡遺跡の窯跡のものと特徴が一致しており、ここで焼かれたものであると考えられている。
日本後紀によれば、古代の駅伝制において大隅国蒲生駅と薩摩国田尻駅の間が長すぎるために804年(延暦23年)3月に薩摩国櫟野村に新たな駅を設けたという記述があり、これが「蒲生」という言葉が文献に現れる最初である。この蒲生駅は、現在の蒲生町下久徳付近にあったと比定されている。大隅国の国府があった国分付近と薩摩国の国府があった川内付近を結ぶ経路上の拠点であったと見られている。
薩摩国・大隅国はもともと人口が少なく、田畑も少なかったことから開墾を奨励するために班田収授法の適用が遅れていたが、800年(延暦19年)になってようやく施行された。しかし次第に律令制は崩壊に向かい、貴族や寺社による私有地化が進んでいった。
この頃、加治木地方を郡司として支配していたのは、後漢の霊帝が先祖だとされる大蔵氏一族であった。魏に追われて朝鮮半島に逃れた霊帝の孫孝延王の子孫が来日して帰化し、播磨国大蔵谷を領地としたことから大蔵氏を名乗るようになったとされる。大蔵氏の一族は940年(天慶3年)頃、藤原純友の乱(承平天慶の乱)の鎮圧に関連して九州地方各地に下向したとされている。加治木の大蔵氏もこのときに下向したのではないかと考えられているが、確実な資料は残されていない。後に加治木氏を名乗るようになり長期に渡って加治木を支配した。当初は日木山(古代の地名では肥喜山)付近を拠点としていたが、後に加治木城を築いて本拠とした。
もともと、国 - 郡 - 郷の三層構造の郡郷制を採っていたが、平安末期になるとこれに改変が行われ、郡・郷・院がそれぞれ対等な形で国に属するようになっていた。姶良市にあたる地域では、蒲生院・帖佐郡・加治木郷となっていたとされている。このうち帖佐郡が後の姶良町にほぼ相当する。
宇佐八幡宮の留守職であった藤原教清が宇佐八幡大宮司の娘との間に儲けた息子藤原舜清は、1120年(保安元年)に大隅国の垂水へ下ってきて、続いて1123年(保安4年)正月に蒲生院に入ってこの地域の総領職となった。そして宇佐八幡宮を勧請して蒲生八幡神社を創建した。以後、舜清とその子孫は蒲生氏と称して、蒲生城を中心としてこの地域を支配するようになった。
1135年(保延元年)2月1日の「宮永社役支配状」に「加治木郷」の名前が出たのが加治木という地名の初見とされる。この頃帖佐郡は藤原忠実により1136年(保延2年)、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)へ寄進された。大隅国府でこうした税を収納する職を帖佐職と呼んだことが、帖佐という地名のおこりという説がある。しかし、古代の答西(たふせ)という名前がなまったという説もある。
この地域の土地は、平安末期になると次々に大隅正八幡宮へ寄進された。大隅国においては、島津荘に代表されるように半不輸地であるが領主の権限が強く、国衙の支配が及ばない寄郡(よせごおり)と呼ばれる荘園が広がっていたため、宗教的な権威に頼ってでも支配地を確保するために大隅正八幡宮への寄進が進められたものと考えられている。正八幡宮領では、官物は国衙へ、雑役は正八幡宮へ納められた。
鎌倉幕府は、文永の役を受けて博多湾周辺などに防備のための元寇防塁を整備した。この際に各地に防塁建造作業の割当を行っており、このうち大隅国に対して割り当てられた分については1276年(建治2年)の「大隅国在庁石築地役配符」という文書に詳しい記録が残されており、その当時の大隅国の様子を知る手がかりとなっている。この文書によれば、現在の姶良市のあたりは蒲生院・帖佐郷・加治木郷に分かれていたものとされる。帖佐郷は姶良町に相当するが、鍋倉地区は加治木郷に、脇元地区は蒲生院に属していたとされる。
1282年(弘安5年)、山城国石清水八幡宮から平山了清が下ってきて、大隅正八幡宮領の帖佐郷を治めることになった。了清は、姶良町の海岸部である松原地区(現在の大字では東餅田)に一旦上陸し、その後別府川を遡って船津で船を係留して一晩を明かし、翌朝東側の三拾町に上陸したという故事がある。大隅正八幡に対して新正八幡と称する神社を山の上に作り、また平山城を造営して居城とした。この新正八幡宮は現在も存在しており(現八幡神社)、社殿の前には了清が植えたといわれる樹齢700年あまりの大銀杏がある。平山氏はその後帖佐郷各所に城を築いて一族で支配を行った。こうして、蒲生院は蒲生氏、帖佐郷は平山氏、加治木郷は加治木氏という豪族がそれぞれ治める土地となった。 …