福知山市: 歴史
=== 古代 ===
綾部市や舞鶴市など周辺の地域を含め、この地では考古学上貴重な資料ともなる大小さまざまな多数の古墳や副葬品などが出土している。
福知山市内からは古くは縄文時代初期のころのものが出土していることから、既にそれ以前にはこの地に人が住んでいたことや、多くの有力豪族がこの地一帯を統治していたことが分かっている。福知山市の広峯古墳群のうち広峯十五号墳からは「景初四年」の銘が鋳出された盤龍鏡が出土している。これらは「京都府広峯十五号墳出土品」として国の重要文化財に指定されている。
しかしこういった遺跡や住居跡などは平安時代初期にかけてまでしか見つかっておらず、こういった勢力は飛鳥時代の終わりごろに滅亡していったと考えられている。
平安時代
平安時代になると摂関家領の荘園として利用されるようになり、後期には天田郡(あまだごおり)のほとんどが荘園として利用されるようになった。鎌倉時代に入ると多数の守護や地頭が送り込まれたために、その荘園もやがて彼らの物に変わっていった。
室町時代
室町時代後期になると、信濃小笠原氏の小笠原長清の末裔とされる小笠原頼勝は、福知山盆地の中央部に位置する「横山」と呼ばれた丘陵地に簡素な空堀と土塁だけで出来た横山城を築きあげた。
のちに小笠原頼勝は塩見頼勝と名を改め、その子塩見頼氏が横山城等を拠点としてこの地を統治するようになる。
戦国時代
戦国時代に入ると、塩見頼氏は子の塩見信房に横山城を譲り、彼が福知山を統治するようになる。
安土桃山時代
1579年(天正7年) - 明智光秀が丹波を平定(横山城攻略)する。翌天正8年、福智山築城によりこの地を「福智山」と改める。
織田信長に丹波平定を命ぜられた明智光秀は横山城を攻め落とし、城主の塩見信房は自害し果て、塩見氏の福知山統治は終焉することになる。光秀は褒賞として丹波の国を与えられ、同時にこの城を城代に命じて大改修を行った。光秀はこの改修後の城を「福智山城」と改め、ここに福知山の地名が誕生する。更に光秀はそれまでたびたび氾濫を起こしていた由良川の流れを改善し、度重なる洪水によって疲弊していた農民に対し地子銭を免除するなど善政を敷き、城下町としての基礎を築いたのであった。
天正10年(1582年)6月 - 福知山城築城のわずか3年後、光秀は本能寺の変を起こし一時天下人になるも、山崎の戦いにおいて羽柴秀吉に敗れ落命し、明智氏は滅亡する。福知山を含む丹波国は秀吉の支配下に置かれ親族の杉原家次が治めた。
その後、秀吉家臣の小野木公郷(小野木重次、小野木重勝ともいう)が、秀吉の命により福智山城主となり福知山領を統治するようになる。
公郷は秀吉の没後、徳川家康と石田三成とが対立すると三成に味方し、慶長5年(1600年)には家康方の細川幽斎が守る田辺城を攻め落城させたが(田辺城の戦い)、関ヶ原の戦いにおいて三成が敗れたことにより逃亡、細川忠興に追い討ちをかけられ自害した。
1600年(慶長5年) - 有馬豊氏により藩が設置される(城下町はこの時代において形成されたと思われる)。以後、徳川幕府においての福知山藩(明治時代の府藩県三治制時の名称)となる。
江戸時代
関ヶ原の戦いにおいて大活躍し徳川家康からその功績を認められた有馬豊氏は、横須賀藩(遠江)から石高を大幅に増やしたうえで外様の大大名がひしめく山陰道を、押さえる福智山の地へと転封を命ぜられた。
福知山は山陰の玄関口にあたり、丹波篠山城と並んで軍事的に重要な地であり、豊氏に対する幕府の信頼を窺わせる人事であった。中世の小城であった城を現代の規模に拡大改修したのも豊氏である。
豊氏は検地を行い、今在でもその名残を残す近代的な町割りを行い、福知山の城下町を築き上げた。こうして福知山市の前身である石高八万石の福智山藩が有馬豊氏によって立藩された。
その後、豊氏は大坂の陣でも功績を認められ、久留米藩へとさらに加増移封され、小堀政一や伏見奉行などによって統治される。以降、領主は国替えや改易によってたびたび交代がなされるようになった。その間、慶安2年(1649年)に福知山藩に入った松平忠房が行った検地は、地租改正が行われるまで福知山の土地制度の基準となったためこれを松平検地と呼ばれる。
1669年(寛文9年)に朽木稙昌が移封されて藩主となると、以後は13代にわたって朽木家が藩政を務めるようになり、朽木家の福智山藩として定着した。朽木家は近江源氏の流れを汲む武門の名家である。藩主が五代目朽木玄綱になると地名を「福智山」から「福知山」に改め、「明智光秀の治水によって水害から救われ、城下町として栄えたのは彼のおかげである」という住民の連署によって御霊神社に光秀の合祀を許したのであった。
一方でその後の福知山藩の財政状態は苦しいものであった。建て直しをはかってたびたび財政改革を行おうとするものの、たびたび百姓による強訴が起きるなどにより失敗に終わる。特に享保の大飢饉を発端とするものと、万延元年(1860年)に起きた強訴は大規模であった。
但馬牛(丹波牛)の集散地としてや、以前から行われていた由良川河畔での桑の栽培が盛んに行われるようになり軍需産業としても養蚕業が栄え繊維関係での中核地として栄えるようになる。
このとき日本は日露戦争を控え、京阪神と日本有数の軍港である舞鶴港をつなぐ交通網の普及が急がれたことから、福知山はその中継地点として国鉄福知山線と山陰本線の敷設が行われた。同時に旧陸軍歩兵第20連隊は、このときから現在の福知山駐屯地に駐屯するようになる。
明治
1871年(明治4年)
7月14日 - 廃藩置県によって、福知山藩が廃止されて福知山県が設置される。
11月22日 - 福知山県が豊岡県に統合される。
1876年(明治9年)8月21日 - 豊岡県は兵庫県と京都府に分割統合、京都府天田郡となる。
1877年(明治10年)‐現在の音無瀬橋下流左岸の堤防上、遊廓街が形成される。下柳町付近の貸座敷12軒がその始まりとされる。このため「土手の町」、「土手町」などと呼ばれた。のちの1896年(明治29年)8月30日の大水害で大きな被害を受け、全滅する。3年後の1899年1月、当時は村落であった猪崎に移転し「猪崎新地」と呼ばれ、猪崎は福知山の遊廓の代名詞となる。明治末期には芸妓30名、娼妓100名を擁し、大正末期には妓楼78軒、娼妓160名となりピークを迎える。
1896年(明治29年)8月30日 - 大水害で大きな被害を受ける。
1898年(明治31年) - 旧陸軍歩兵第20連隊が駐屯開始をする。
1899年(明治32年)1月 - 1896年の水害で全滅した下柳町の遊郭が猪崎に移転し「猪崎新地」と呼ばれ、発展する。7月15日 - 福知山線の柏原駅〜福知南口駅開通により、大阪〜福知山間全線が開通する。
1910年(明治43年)8月25日 - 山陰本線の園部駅〜綾部駅開通により、京都駅〜福知山駅全線が開通する。上記の1899年(明治32年)の大阪〜福知山間全線開通とあわせて、福知山駅が市の中心駅として担うようになる。
昭和
昭和に入ってまもなく福知山の養蚕業は全盛期を迎える。更に福知山町は庵我村・雀部村・下豊富村を編入し、人口が約3万2千人の福知山市が誕生。翌年には福知山市章も制定される。
第二次世界大戦末期には日本国海軍の「石原飛行場」と呼ばれる航空基地もあった。その滑走路は長さ1700メートルにもおよび、現在の中丹広域農道沿いに市内前田から石原をまたぎ戸田にまで延びていた。
主に練習用として使われていたものの米軍の機銃掃射の攻撃対象にもなっていた。そのため周辺には敵機を撃墜させるための高射砲や物資格納倉庫などが備えられており、終戦が遅ければ福知山市も空襲の対象になっていたのではないかともいわれるほどの軍事拠点でもあった。その滑走路は地元の農民が破壊し農地に復興させたため今では見ることができなくなっている。 …