Heimatgeschichte · Honjo ·

本庄市: 歴史

本庄市: 歴史

旧石器などの遺物の出土や縄文期、弥生期、古墳期と、各時代にそれぞれ遺跡がある事からも分かるように原始時代の頃より本庄には人々が暮らしていた。
本庄の古墳時代の特色として、旧児玉町下浅見の鷺山古墳が4世紀中頃(333年 - 366年)まで遡る県内でも最古級かつ最大(全長約60m)の前方後方墳に当たる事、また、本庄の大久保山古墳群の前山1号墳は県内最大の前期前方後円墳であり、武蔵国北部に顕著な巨大円墳も古墳時代の本庄の特色の一つである。
平安時代にこの地域を群雄割拠した武蔵七党の一つにして最大勢力を有した児玉党を構成する(かつ党首でもあった)庄氏本宗家が当地に館を築き、鎌倉時代に庄氏から派生した本庄氏がこの地に土着した事が地名の由来である。
12世紀頃、 武蔵七党中最大の武士団である児玉党の本宗家4代目庄太夫家弘が現在の本庄市栗崎の地に館を築く(以降、本宗家の領地となる)。
13世紀頃、庄太郎家長の四男、時家が本庄氏を名乗り、現在の本庄市北堀の地に館を築く。
15世紀には五十子陣が築かれて古河公方と対立する関東管領上杉氏の事実上の本拠地となったが(享徳の乱)、上杉軍の内紛(長尾景春の乱)によって放棄せざるを得なくなった(五十子の戦い)。
16世紀の終わりに本庄氏が没落し、信濃国から移された小笠原氏の城下町となり、のちに本庄藩が生ずるも17世紀初期には廃藩となった。中世に武家の領地(城下町)として始まり、近世では幕府の政策の都合から宿場町として栄え、商人の町として発展し、戸谷半兵衛と言った豪商も輩出している。18世紀には中山道で最大の宿場町となり、各地から人や物流が集中した。明治以降は生糸・絹織物の産地として栄え、工場も建てられるようになり、東諸井家など日本の近代化に貢献した一族も輩出した。

市名の由来 - 「本庄城」から。本庄宮内少輔実忠が1556年に築城した。本庄氏滅亡後に落城した後、小笠原掃部大夫信嶺によって築かれた城を、第二次本庄城、または後期本庄城、通称、小笠原氏本庄城と言う。現在の城山稲荷神社付近に当たる。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、本庄宿から児玉郡本庄町となる。
1923年(大正12年)9月4日 - 本庄事件。関東大震災後の混乱の中で朝鮮人が殺害される事件が発生。
1948年(昭和23年)8月 - 本庄事件。同年8月12日に本庄町における暴力団と町議、官憲との馴れ合いを報道した朝日新聞記者が暴行、脅迫を受けたのをきっかけに、抗議活動として8月26日に暴力団追放町民大会が開催され1万人の参加者を集めた。
1954年(昭和29年)7月1日 - 児玉郡本庄町・藤田村・仁手村・旭村・北泉村が合併(新設合併)し、本庄市となる。
1957年(昭和32年)7月18日 - 児玉郡共和村の一部を編入する。
1995年(平成7年)-1999年(平成11年) 本庄保険金殺人事件。
2006年(平成18年)1月10日 - (旧)本庄市、児玉郡児玉町と新設合併し、新たに本庄市となる(児玉町と合併以前の人口は6万1千人)。
2006年(平成18年)10月22日 - 2代目の市章を制定する。

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Quelle: Text: Wikipedia – „本庄市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: まも(Mamo), Public domain – Wikimedia Commons