守谷市: 歴史
=== 名称の由来 ===
守谷という名称の由来には3つの説があるが、正確には分かっていない。
日本武尊が東征の際にこの地を訪れ、鬱蒼と茂る森を見た際に驚嘆して発した「森なる哉」(もりなるかな)という言葉から「森哉」(もりや)となったという説がある。しかし、日本武尊が守谷を訪れたという確証はない。
平将門が城を築いた際に入り江(現在は消失)に守られたこの土地を「守るに易き谷」と評したことに由来するという説がある。しかし、守谷城を築城したのは将門ではなく後世の相馬氏と推測される。なお、市内には平将門にまつわる伝説・言い伝えが数多く残されている。
郡司の官衙(郡衙)、屯倉があった処から「まもりびと」「もりや」になったという説がある。
守谷の鎮守神として奉られている牛頭(ごず)大王(八坂神社)に納められている神鏡に「下総国守谷郷牛頭大王守護所、大同元年丙戌、神主吉信」と書かれていることから、806年(大同元年)には守谷郷の名称がみられ、それ以前より守谷の名称が用いられていたと考えられる。また、1614年(元和7年)の神社奉納品には「森屋之郷」と記されており、異字である「森屋」も用いられていたと考えられる。
また、守谷町、大井沢村、高野村、大野村が合併した際に、新町名を守谷町とした理由は、景行天皇以降、徳川時代より(旧)守谷町を中心に付近数里の間を「守谷郷」と称していたことによる。審査方針は5つあり、「郷土民情にふさわしき町名」「住民の納得する町名」「子孫に悔いなき町名」「一般社会に知れやすい町名」「郷土のふうしょうを現される町名」であった。また、新町名選定の際には守谷町の「守谷」と大野村、高野村の「野」を合わせて「守谷野」とする案もあったが、「守谷」となったことには大井沢村住人が守谷を支持したことも後押しとなった。
守谷市の前身である守谷町は、1955年(昭和30年)3月1日に北相馬郡西部1町3村が合併したことにより誕生した。合併時の人口は12,001人。
合併は1953年(昭和28年)9月1日に交付され、同年10月1日から施行された町村合併促進法に基づき懇談会・座談会等を経て審議されたものであったが、当初予定では(旧)守谷町を中心として、大井沢村、大野村、高野村(以上、現・守谷市)、小絹村(現・つくばみらい市)、高井村(同地→現・守谷市・それ以外→現・取手市)・稲戸井村(現・取手市)で合併を行う予定であった。この場合の予定人口は19,612人、世帯数3,432戸、面積58.218km2だった。
1954年(昭和29年)5月7日には1町6ヶ村による代表者会議を開催し、同月26日には関係町村を含めた各町村10名ずつの代表者による合計70名で構成された「町村合併促進協議会」が発足。総務部、財務部、教育民生部、産業経済部、土木部の5つの専門部を設け、守谷町長を会長・他6ヶ村の村長を副会長、各部代表者の互選による代表者を部長として合併促進が進められたが、小絹、高井、稲戸井の3村が1町6ヶ村の合併に慎重な態度を取った。そのため、組合立中学校等を共同経営し、守谷町市場や法務局守谷出張所等の共同利用、同管轄である守谷町、大井沢村、大野村、高野村での合併を進めることとなった。その後も小絹、高井、稲戸井の3村に合併の促進を促したが、意見が一致せず、同年8月6日に新町建設計画の骨格である協定事項25項目を決定した。また、同月29日には新町名を「守谷町」に決定。同年11月12日に議会で合併決議が行われ、同年12月13日に県知事に申請。翌1955年(昭和30年)1月13日付で認可された。これに先立つ1954年(昭和29年)12月2日には、1町3村合併に先立ち、高井村大字同地(人口187人、28戸宅地33,517.354m2(10,319坪)、耕地469,091.14m2(47町3反))が守谷町に編入されることが決定。翌1955年(昭和30年)2月15日に編入された。その翌月3月1日に守谷町、大井沢村、大野村、高野村で合併が行われ、現在の守谷市域が確定した。
(旧)守谷町
現在の赤法花、小山、中央、ひがし野、本町、松並、松並青葉、みずき野、百合ケ丘の全域及び松ケ丘、けやき台の一部、同地(1955年2月15日 - 3月1日まで)に相当する。町の中央は海抜20mの台地で、その周辺が谷津田となっていた。常総鉄道(現:関東鉄道常総線)が南北に通り、守谷駅から銚子街道沿いを南に2,000mほど商店街を形成。町内にある守谷駅は常総鉄道内で2位の乗降客数であった。
明治以前より守谷町とされていた区域は、現在の中央、ひがし野、松並、松並青葉、百合ケ丘の全域と本町の大部分であり、1881年(明治14年)に辰新田村、1883年(明治16年)に西奥山新田を編入(現在の本町字辰新田、本町字奥山新田で、これらを含む1889年以前の旧守谷町が後の大字守谷である)。1889年(明治22年)に守谷町・小山村・赤法花村が合併し、(旧)守谷町が誕生、旧町村はそれぞれ大字守谷、大字小山、大字赤法花となった。大井沢村、高野村、大野村との合併直前である1954年(昭和29年)7月時点の旧守谷町の人口は4,817人、面積は8.55km2である。翌2月15日には高井村大字同地を編入し、3月1日の3町1村合併まで同地は(旧)守谷町の大字となっていた。合併直前の町役場所在地は守谷町大字守谷甲19番地1。
以下は、1889年(明治22年)から1955年(昭和30年)までの旧・守谷町の町長である。
大井沢村
現在の板戸井、大木、大山新田、久保ケ丘、御所ケ丘、立沢、松前台、薬師台及び、緑の一部に相当する。大字板戸井、大字大木、大字大山新田、大字立沢の4大字があった。合併直前である1954年(昭和29年)7月時点の旧大井沢村の人口は2,696人、面積は11.25km2だった。
高野村
現在の乙子、高野、鈴塚、美園及びけやき台、松ケ丘の一部に相当する。大字乙子、大字高野、大字鈴塚の3大字があった。合併直前である1954年(昭和29年)7月時点の旧高野村の人口は1,724人、面積は6.29km2だった。
大野村
現在の大柏、野木崎、及び松ケ丘、緑の一部に相当する。大字大柏と大字野木崎の2大字があった。合併直前である1954年(昭和29年)7月時点の旧大野村の人口は2,577人、面積は8.22km2だった。
1955年(昭和30年)の新町発足時の守谷町(現:守谷市)の方針は、産業都市を目指したものであった。そのため、道路整備及び軽工業工場の誘致を行うことを計画・実行した。 …