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日田市: 歴史

日田市: 歴史

=== 地名の由来 ===
令制国としては豊後国に属した。「日田」の地名の由来にはいくつかの説があり定かではない。
720年から740年頃に成立した『豊後国風土記』では、景行天皇が九州遠征時に浮羽から日田に立ち寄った際に、「久津媛」(ひさつひめ)と名乗る神が人となり現れたことに因んで名づけられたもので、後に久津媛が訛って「日田」になったとしている。
また、承平年間(931年 - 938年)に成立した『和名類聚抄』では、日高郡とされており、「比多」の訓が付されている(元和古活字本巻5)。現在も三芳地区には「日高町」という地名が残っている。
江戸時代に成立した『豊西記』には、「湖であった日田盆地に大鷹が東から飛んできて湖水に羽を浸し、羽ばたき、旭日の中を北へ去ると、湖水は轟々と抜けて干潟となった。そして日隈、月隈、星隈の三丘が現れた。」という「日と鷹神話」があり、それよりヒタカと呼ばれるようになったという。

小迫辻原遺跡より、3世紀末から4世紀初頭にかけての豪族の環濠居館の跡が出土している。また、ダンワラ古墳からは1世紀 - 3世紀頃の漢鏡と推定される金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(国の重要文化財)が出土している。この鏡には卑弥呼の鏡ではないかとの説もあり、2009年に九州国立博物館4周年特別展で展示された際には「卑弥呼の鏡か?」とのコピーとともにPRされた。
学術的には偽書とされる『先代旧事本紀』国造本紀に、古代ヒタにおいての国造には、「成務天皇の時代に葛城国造同祖、鳥羽足尼(宿禰)を定めた。」とある。止波宿禰(鳥羽宿禰)は、470年以降(古墳時代後期)に靱編連(ユギアミノムラジ。現在の日田市刃連町付近)に会所宮(現在の会所山久津媛神社周辺)とよばれた屋敷に居住し、村人に農業などを指南した人物として『豊日志』(現存せず)に記されていたとされる。
『豊後国風土記』靭編郡の条には、欽明天皇の時代、日下部氏の祖である邑阿自(オウアジ)が靱部として仕えており、村について家を構えた。これにより靭負(ユギオイ)村とよび、後に靭編(ユギアミ)郡と呼んだとある。ちなみにユギオイとは、靭(ユギ・ユキ、矢を入れる容器)を使用する者をいい、ユギアミとは、靭を作る者のことをいう。大化の改新後は郡司に任ぜられ、大蔵氏 (豊後国)が郡司に就くまで日田の支配権を握っていたと考えられている。

834年頃に、在地小豪族の大蔵氏(大蔵氏の庶家)が居付いたとされている。日田大蔵氏に関しては中井王の子孫であるという説もあるが、一方、宇佐を本拠としていた大蔵鬼蔵大夫永弘が日田に居付いて、日田大蔵氏となったという説もあり、渡来の秦氏であるというものまであるので定かではない。
日田城および大蔵館(鷹城)、現在の慈眼山公園を拠点に栄華を極め、1444年まで590余年一系を保った。家臣たちにより16代永包を殺害した永好を美濃国で殺害し、豊後の大蔵氏は滅亡する。その後、大友氏より親満(永世)を養子に受けて大友系日田氏として再興するが、1548年に滅亡する。以降は、大友義鑑が選出した旧豊後大蔵氏一族の郡老8名が政治を執り行った。

1593年、豊後国を治めていた大友義統が文禄・慶長の役において敵前逃亡の責めを負って改易され、領国内であった日田郡は蔵入地(豊臣家直轄地)となり、宮部継潤らによる検地(太閤検地)が行われた。宮木豊盛が代官として入領して日隈城(隈城)を築き、のち毛利高政が日隈城に入城して日田郡2万石および玖珠郡を治めた。1600年の関ヶ原の戦いで毛利高政は西軍につき、日隈城は豊後国内の攻略を行っていた黒田孝高勢と講和して開城。毛利氏は豊後国佐伯への転封となり、日田は黒田孝高家臣の栗山善助預かりとなって日隈城に詰めた。
1601年、小川光氏が日田郡に入領し日田盆地北部にある丸山(月隈山)に丸山城を築城。日田郡の内、丸山城を中心とする北部を小川氏、日隈城を中心とする南部を栗山氏に代わって毛利氏預地として治めるところとなった。1616年、小川氏に代わり石川忠総が丸山城に入城。城を改修して永山城と改名し、城下町も移転して豆田町と改める。1633年、石川氏が下総国佐倉藩に移封となり、中津藩・杵築藩の預地となる。1639年、江戸幕府直轄領となり、初代代官の小川藤左衛門、小川九左衛門は城を廃して麓に陣屋を置いた。その後、幕府の直轄領である支配所(天領)や他藩の預地、松平直矩などいくつかの大名支配を経て、1686年以降は大名が入封することなく明治まで幕府の支配所となり、幕府が任じた代官が赴任するところとなった。
江戸中期の1767年、日田代官の揖斐政俊が西国郡代に格上げされ、それ以降は九州の支配所を治める郡代支配の拠点となった。最後の郡代は窪田鎮勝。享保19年(1734年)当時には、豊前・豊後・日向・筑前の直轄地合わせて12万石を支配し、江戸末期には16万石にもなった。

江戸時代に京・大坂・江戸を手本に町人文化が繁栄し、現在でも小京都などと呼ばれる。特に、代官・郡代により掛屋に指定された商人は大名貸の金利などにより利益を得ており、その利益や蓄えを俗に日田金(ひたがね)といった。日田金は一例として、広瀬淡窓の弟である6世広瀬久兵衛(ひろせきゅうべい、1790年 - 1872年)による治水工事(小ヶ瀬井路)や通船用への川の整備、干潟の干拓(呉崎新田・久兵衛新田(宇佐)など)工事などの事業、大名の財政再建などに投じられている。
幕末に広瀬淡窓の開いた私塾咸宜園には日本中から塾生が集まった。塾生には蘭学者の高野長英や近代軍隊の基礎を築いた大村益次郎などがいる。

1868年(慶応4年)より支配所(幕府直轄領)は天朝御料(天領)に編入され、西国郡代の支配下にあった支配所地方行政として日田県が置かれた。松方正義を知事として迎えて旧日田陣屋および永山城跡に県庁が置かれたが、その4年後の1872年に日田県は廃止となり、日田県内の日田郡は大分県へ編入された。

1889年(明治22年)に施行された町村制により発足した旧陣屋町を中心とする豆田町と三隈川河畔の商業町(旧日隈城下)を中心とする隈町が1901年(明治34年)に併合し、日田町が発足。
1940年(昭和15年)12月11日 - 日田町と三芳村、高瀬村、光岡村、朝日村、三花村、西有田村の6村が合併し市制施行。
1941年(昭和16年)5月5日 - 市章および「日田市歌」(作詞:山口扶美、作曲:松田一二三)を制定。
1949年(昭和24)6月9日 - 昭和天皇が市内を行幸(昭和天皇の戦後巡幸)。
1955年(昭和30年)3月31日 - 東有田村、小野村、大鶴村、夜明村、五和村の5村を編入。
2005年(平成17年)3月22日 - 日田郡前津江村、中津江村、上津江村、大山町、天瀬町を編入。これにより、日田郡が消滅。
1889年(明治22年)の町村制度施行の際における日田郡全域が現在の市域にあたる(一部で部分的な編入などによる例外あり)。

== 市政 ==

椋野美智子(1期目)

→詳細は「日田市議会」を参照

定数:22人

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Quelle: Text: Wikipedia – „日田市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: アラツク, CC BY-SA 4.0 – Wikimedia Commons