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気仙沼市: 歴史

気仙沼市: 歴史

=== 古代 ===
天平宝字元年(757年)4月、海道蝦夷征討を目的として桃生城が牡鹿郡に建築された。桃生城を拠点に蝦夷経営を開始した朝廷勢力は桃生城襲撃事件や宝亀の乱といった蝦夷の反乱に遭いつつもこれを撃退し、当地方で殖民を開始した。宝亀年間までに牡鹿郡の北半分を割いて桃生郡が成立し、気仙沼地方も古代桃生郡に属した。現に延喜式神名帳には桃生郡六座の一つとして計仙麻大嶋神社が挙げられている。1988年(昭和63年)発行の気仙沼市史によれば、気仙沼地方は桃生郡磐城郷に属していたとされる。なお、気仙郡気仙郷や大島郷が気仙沼市域にあたるという説や気仙沼七村(気仙沼・赤岩・新城・築館・鹿折・唐桑・小原木)は永禄年間まで気仙郡に属していたという説は「民間の臆説」として様々な文献で否定されている。いずれにせよ、本吉郡は平安時代末期に桃生郡から分離し独立したとされる。

源頼朝によって平泉を拠点に栄華を誇った奥州藤原氏が滅亡すると、奥州藤原氏の領土は頼朝方の武将らに配分された。本吉郡は熊谷直家の所領となったが、直家は安芸国豊田郡に所領を有しており、そこに移っていたため貞応2年(1223年)に直家の次男である直宗が気仙沼に下向し、初めて現地経営にあたった。ただし、熊谷氏が本吉郡全域を掌握していたというわけではなく、しだいに馬籠氏や清水氏などといった奥州千葉氏や葛西氏系の諸将が進出し勢力を拡大していった。そんな情勢のなか、南北朝時代に突入すると建武3年(1336年)、牡鹿郡石巻を本拠地としていた葛西高清が本吉郡馬籠城城主である馬籠周防守行胤を攻撃した。
これには義良親王を奉じて陸奥国に下向していた北畠顕家が奥州の武将らに多賀城への参陣を要求していたのにも関わらず馬籠氏がこれを無視したことから、北条氏残党とみなされ攻撃されたのではないかとの見解が存在する。実際、中尊寺東谷坊蔵の文章から、顕家が葛西陸奥守に対して「勲功之賞」として「元良郡」と「気仙郡」の支配を認める旨の史料が発見されている。
熊谷氏の協力もあり、一度は葛西方の撃退に成功した馬籠氏だったが、結局、馬籠城といった城が攻め落とされ、大幅に領土が減らされた。葛西高清は勢いそのままに気仙郡の金氏や磐井郡東山の薄衣氏などを屈服させ、熊谷氏領の周囲をほぼ包囲するに至った。正平18年(1363年)6月、熊谷氏は葛西氏に降伏し、気仙沼は葛西氏の勢力圏に入った。
中世末期の16世紀後半ごろになると、葛西氏は半ば独立した家臣らの統制をとることが難しくなっていた。永禄3年(1560年)3月には気仙郡の新興勢力であった浜田広継が気仙沼に侵攻し、赤岩城城主熊谷直秋および志津川から応援に来た本吉重隆が応戦した。数日間接戦のすえ、広継が降伏し、戦いは幕を閉じた。ただし、その後も葛西氏領内では反乱が相次いで起こり、天正2年(1574年)に本吉重継の乱、天正3年(1575年)に富沢日向守直綱の乱が発生した。極めつけは天正16年春に浜田安房守広綱が広田湾の諸将を集めて鹿折・気仙沼に侵攻した「浜田氏の乱」である。最終的に浜田広綱は熊谷直長によって撃退され、葛西晴信はこれを賞して直長に気仙沼七村の支配権を与えた。
戦国時代末期になり、天下統一目前となっていた豊臣秀吉は小田原攻めに際して、伊達政宗や葛西晴信といった奥羽の戦国大名らに小田原参陣を要求した。しかし、葛西晴信は浜田氏や富沢氏、大和田氏の反乱を警戒して参陣する機会を失い、小田原に参陣しなかったとして改易を宣告された。葛西方は桃生郡和渕に布陣し、秀吉の仕置軍を迎え撃ったが、敗走し降伏した。気仙沼地方含む旧葛西領・旧大崎領は木村吉清の支配下に置かれた。しかし、新領主となった吉清に葛西・大崎家家臣と領民は反発し、葛西・大崎一揆を引き起こした。この一揆は最終的に伊達政宗の協力を得て鎮圧され、以降、当地方は伊達政宗の支配下となり江戸時代を迎えた。

江戸時代、仙台藩の支配下に置かれた気仙沼はまず鴇田治右衛門の支配下となった。鴇田氏は藩の新田開発奨励に呼応して大川流域の干拓と耕地造成に取り組んだ。また、三日町・八日町の埋め立て工事も正保・慶安年間の実施され、次第に古くからの市街地である古町から三日町・八日町へと市街地が形成されていった。しかし、寛文2年(1662年)には鴇田淡路重康が知行替えとなり、以降、気仙沼は蔵入地となった。
慶長16年(1611年)にはセバスティアン・ビスカイノが当地を測量し、仙台藩領内最良の港湾とたたえた。ビスカイノは気仙沼(Quexonoma)の内港を「サン・セバスチャン(San Sebastian)」、唐桑の外港を「サン・フランシスコ(San Francisco)」と命名した。

明治維新を迎えると、気仙沼擁する本吉郡は仙台藩から高崎藩の取締地となった。その後は桃生県、石巻県、登米県、一関県、水沢県、磐井県を経て最終的に宮城県所属となった
1889年(明治22年)4月1日、気仙沼本郷が町村制を施行し気仙沼町が成立した。
昭和時代になると大船渡線気仙沼駅の開業(1929年)や上下水道、市区の改正などといった近代化が逐次なされていき、徐々に市制施行要望の声が上がっていった。戦後まもなくに市制施行の動きは本格化し、市制施行の最重要要件であった人口3万人を目指して町当局は運動を開始した。具体的には近隣の鹿折町・大島村との合併に向けて運動を開始した。気仙沼町・鹿折町は文化を共有しており、経済活動も不離の関係にあったことから、協議は順調に進んだが、大島村との協議は合併に消極的な村内世論のために停滞し、最終的に大島村は一旦合併の枠組みから離脱した。気仙沼町の市制を実現するために、気仙沼町・唐桑町の2町は周辺の松岩村・新月村・階上村・大谷村に合併を呼びかけた。松岩村・新月村・階上村がこれに同調したものの、新月・階上両村は村内の体制準備ができていないということで二次合併に参加することとなり、ひとまず1953年(昭和28年)6月1日に気仙沼町・鹿折町・松岩村が合併するに至った。3町村は市制施行し、気仙沼市が発足した。第二次合併では、県の合併奨励の後押しもあって新月・階上・大島の三村が合併の対象となり、いずれも1955年(昭和30年)4月1日に気仙沼市に編入された。

1876年(明治9年)11月 - 宮城県所属となる。
1889年(明治22年)4月1日 - 気仙沼本郷が町村制を施行し、気仙沼町が成立。
1953年(昭和28年)6月1日 - 本吉郡気仙沼町と鹿折町、松岩村が合併し、気仙沼市が発足。
1955年(昭和30年)4月1日 - 新月村、階上村、大島村を編入。
2006年(平成18年)3月31日 - 唐桑町と合併し、新制の気仙沼市となる。
2009年(平成21年)9月1日 - 本吉町を編入。

1915年(大正4年)3月30日 - 大火。約1,100戸が焼失。
1929年(昭和4年)2月23日~24日 - 23日午後11時50分ごろ八日町横丁山下から出火。気仙沼警察署、本吉公立病院、水産試験場などを含め1,000余戸が焼失する大火となった。
1953年(昭和28年)7月13日 - 初代の市章を制定。
1997年(平成9年)5月1日 - 岩手県一関市と友好都市提携。
2006年(平成18年)3月31日 - 唐桑町との新設合併に伴い、2代目の市章(現行)を制定。
2010年(平成22年)9月18日 - 東京都目黒区と友好都市協定締結 (#)。
2011年(平成23年)3月11日 - 東日本大震災により被災。

2011年(平成23年)3月11日、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、気仙沼市赤岩で震度6弱、本吉町および笹が陣で震度5強を記録した。大津波とそれによって流出した石油の引火による広域火災も発生し、被害は甚大なものとなった。cf. 東日本大震災。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „気仙沼市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Mukasora (talk), CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons