伊達市 (福島県): 歴史
=== 先史時代 ===
伊達市は福島盆地とその周囲を山地を含む地域の北東側を占める。福島盆地が誕生したのは約20万年前の中期更新世で、その後緩やかに沈降しながら時に隆起し、盆地内に平野部と段丘を形成して現在に至っている。伊達郡桑折町の平林遺跡では約3万年前の旧石器時代の打製石器が発見されているため、少なくともそのころには人の営みが始まっていた。
古墳時代前期、福島県域ではまず会津地方で畿内とほぼ同時期に前方後円墳などが作られ始めているが、中期(5世紀)となると、会津地方よりもむしろ中通り地方で多く古墳が作られるようになり、伊達市を含む福島盆地でも数多くの古墳が作られた。伊達市内には愛宕山古墳群、大泉みずほ古墳群、新山古墳群などがある。
5世紀末、福島盆地も大和朝廷の支配下にはいり、大和朝廷勢力圏の北限として信夫国造が置かれた。信夫(しのぶ)は福島盆地一帯の名称である。信夫近隣では伊具(宮城県伊具郡・角田市)、思(おもい)(宮城県亘理郡)、阿尺(あさか)(福島県郡山市)、染羽(しねは)(福島県双葉郡)、白河(福島県白河市)に国造がおかれた。氏姓制度では血縁を表す氏(うじ)と職務を表す姓(かばね)が定められたが、信夫国造は久麻直(くまのあたい)なので、信夫国造の姓が直(あたい)であったことがわかる。また、信夫国の部民は、丈部(はつかせべ)、壬生部(みぶべ)、太田部(おおたべ)などがいた。また、大和朝廷勢力圏の北限として、蝦夷に対するため、軍備の任も担っていた。また陸奥国開拓のため、関東や近畿地方からの半ば強制的と思われる大量移民も行われていた。太田部とは新田開発のための移民団である。
7世紀中期 - 8世紀初頭には地方行政が再編され、国(くに)は評(こおり)を経て郡(こおり・ぐん)と名称が変わり、信夫国も信夫郡となった。また、道国郡制が整備され、東山道陸奥国信夫郡となった。行政官である国造も評司(こおりのつかさ)、郡司(ぐんじ)と変遷した。
701年(大宝元年)、律令制が始まると大和朝廷の勢力圏は現在の宮城県域まで北進し、それによって、718年(養老2年)には陸奥国の分国が行われた。陸奥国のうち、信夫郡、安積郡、岩背郡、白河郡、会津郡の5郡は石背国(いわせのくに)となった。同様に菊田郡、石城(いわき)郡、標葉(しねは)郡、行方(なめかた)郡、宇太(うだ)郡、曰理(わたり)郡は石城国となり、残る柴田郡、刈田郡、名取郡、宮城郡、黒川郡等の北部が新しい陸奥国となった。ただし、分国された新しい陸奥国では北方防備に十分な経済力を維持できなかったため、724年(神亀元年)までにこの3国は再び合併して陸奥国に戻された。
10世紀初頭、各郡の大きさ(人口、経済力)を平均化するために全国的に郡の分割や再編を行った。福島盆地域では、信夫郡から伊達郡を分割した。ここに始めて伊達郡が誕生する。信夫郡には8つの郷(ごう)があったが、そのうち小倉郷(福島市南部、大森川以南で阿武隈川以西)、安岐郷(福島市中心部、大森川以北で松川以南で阿武隈川以西)、岑越(みねこし)郷(信夫山周辺、松川以北で摺上川以南で阿武隈川以西)、曰理(わたり)郷(福島市南部、阿武隈川以東の南部)が信夫郡として残り、伊達郷(福島盆地北部、摺上川以北で阿武隈川以西)、靜戸(しずりべ)郷(伊達市主要域、阿武隈川以東の北部)、鍬山(くわやま)郷(伊達市月舘町や伊達郡川俣町、伊達郡飯野町などの阿武隈高地域)が、新しく伊達郡となった。
当時の松川は信夫山(当時は岑越山)の南側を流れていたため、信夫山は松川以北となる。
11世紀末になると、奥州藤原氏が東北地方のほぼ全域を直接的間接的な支配下においた。信達地方(信夫郡と伊達郡)は、福島県中通りと会津をほぼ支配下におさめた藤原氏の一族である信夫佐藤氏の本拠地となった。
源頼朝の奥州合戦の事実上の決戦が伊達郡国見町の厚樫山(国見山)山麓で行われた。このとき、信夫佐藤氏の佐藤基治を破った功で、関東武士で中村氏(常陸伊佐氏)が源頼朝から伊達郡を拝領したため、下野国中村荘あるいは常陸国伊佐から分家して伊達郡に定住して伊達氏を名乗るようになった。奥州伊達氏の起こりである。これ以降安土桃山時代まで、伊達郡は伊達氏の本拠地として、一貫して伊達氏支配下にあった。長く伊達氏が本城を置いた梁川(伊達市梁川町)では、梁川城が築かれ、伊達氏の勢力拡大とともに南奥州の中心地の一つとして、多数の寺社が建立されたり、中世庭園が造園されたりしている。室町時代、伊達氏は京文化の取り入れに熱心だった。
一方、南北朝時代には、1337年、南朝側の義良親王(後村上天皇)と北畠顕家が霊山(りょうぜん)に霊山城(伊達市霊山町)を構え、北朝に対する拠点となった。これを支えたのが伊達行朝(伊達行宗)や同族の中村経長らである。義良親王や北畠顕家らは霊山から京に攻め上り、伊達行朝も北畠顕家従って上洛した後、帰山した。その後も南朝側として奮戦したが、1347年に霊山城は落城し、伊達行朝も翌年死去した。
伊達氏は勢力拡大や内紛を経て、本城を梁川城から桑折西山城、米沢城、会津黒川城へと移していくが、豊臣秀吉が奥州仕置で伊達政宗を岩出山に転封したことにより、伊達郡は会津に入封した蒲生氏領を経て、越後から会津に加増転封された上杉景勝領となった。関ヶ原の戦いの折りには、旧領回復を目指す伊達政宗軍が福島盆地に攻め寄せて梁川から福島で激しい戦いが繰り広げられたが(松川の戦いなど)、上杉軍は伊達軍を撃退した。
関ヶ原の戦いの翌年、上杉景勝は徳川家康に会津や中通り中部の諸郡を没収され、120万石から置賜郡(長井郡)と信夫郡、伊達郡のみの30万石になって江戸時代を迎えた。
江戸時代初期の伊達郡は上杉氏米沢藩領であり、米沢藩の福島奉行(信夫伊達両郡代)の支配下となった。120万石から30万石となっても家臣の多くを抱えたままだったため、米沢藩では深刻な財政難に陥り、新田開発なども積極的に行われた。伊達郡北部では西根堰の完成により、飛躍的な増産を実現している。その後、1664年(寛文4年)の相続問題により、信夫郡、伊達郡は米沢藩より召し上げられ、米沢藩は15万石、信夫郡と伊達郡は天領(幕府直轄領)となった。
1679年、本多氏福島藩15万石が成立するが、本多氏は1682年には転封され、再び天領となる。続く1683年に松平氏梁川藩3万石が成立する。この梁川藩の成立によって、ながらく続いた信達平野(信夫郡伊達郡)の一括支配は終わりを迎え、この後明治維新まで、伊達郡、信夫郡とも、村単位で梁川藩領、福島藩領、天領、他藩の飛び地、預かり地などがめまぐるしく入り乱れる。桑折藩(伊達郡桑折町)や下手渡藩(伊達市月舘町)も置かれた。
たとえば、梁川一帯はすべて梁川藩というような単純なものではなく、梁川藩領の中に天領があったり、五十沢(いさざわ)(伊達市梁川町)が桑折陣屋管轄なのに五十沢と桑折の間の川内は川俣陣屋管轄だったり、半沢や成田(いずれも伊達郡桑折町)が福島藩の飛び地だったり、福島藩と梁川藩の間に二本松藩の飛び地があったり、という具合だった。また、梁川藩自体も、廃藩になったり、松前氏梁川藩となったり、会津藩や平藩の飛び地になったりした。
一方、江戸時代を通じて伊達郡一帯では養蚕業が発展し、特に梁川は全国的に知られる蚕都となった。江戸時代中期には、全国の蚕種生産高の半分以上は信達地方の生産だったという。幕末には品種改良や温暖育の技術を完成させ、蚕当計(養蚕用温度計)の発明によって、科学的な養蚕…高品質な生糸の安定生産を実現した。こうした好景気によって、民間レベルの学問の向上、全国からの蚕種・生糸買い付け人を迎えるための遊興施設や宿施設の充実などが興り、それらが土壌となって大衆文化が花開いた。
幕末からの養蚕業による好景気は明治になるまで続いたが、その後の養蚕業の低迷によって現在、農業は果樹中心に転向している。特に桃やりんご、柿の栽培が盛んである。特に五十沢で大正時代に発明されたあんぽ柿はこの地方の特産物として名高い。
一方、古来より信夫郡と伊達郡は同じ福島盆地として不可分の生活圏を構成していたが、福島市が福島県の県庁所在地となって急速に都市化したことにより、伊達郡域の町は福島市の衛星都市化した。特に高度成長期後にその傾向が顕著で、通勤通学も福島市へ行く人口が多い。