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常滑市: 歴史

常滑市: 歴史

=== 古代から近世まで ===
「常滑」という地名は、『大般若経』(猿投神社文書)応永4年(1397年)付奥書に「於尾張国智多郡堤田庄常滑郷宮坂草庵」とあるのが初見である。また、『言継卿記』弘治3年(1557年)3月16日条に「とこなべ」、天正9年(1581年)3月7日付『越前国竜沢寺勧進』に「トコナベ」という名が見られる。平安時代末期成立の『尾張国内神名帳』には「智多郡...常石天神」と記載があり、「常石」が「常滑」の古表記であるとする説がある。
当市域を含む知多半島中部では粘土を豊富に産出するため古くから陶器が生産された。平安時代後期頃から中世にかけて当市とその周辺で生産され始めた「古常滑」と呼ばれる焼き物は太平洋に沿って日本全国に広まり、北は青森県から南は鹿児島県まで、全国の中世遺跡において出土する。
室町時代には三河の守護である一色氏が尾張の知多半島に支配を広げ、市域北部の港町である大野に大野城(宮山城)を築いた。のちに一色氏の被官である佐治氏が主家にかわって大野城主となり、佐治氏の下で大野は伊勢湾東岸の港湾として繁栄した。
戦国時代には、知多郡緒川(現・東浦町)の領主水野氏の一族が進出(常滑水野氏)、水野忠綱が現市域中心部に常滑城を築いた。常滑水野氏は大野城の佐治氏と伊勢湾東岸の水運を二分した。しかし、三代城主水野守隆(守次)が本能寺の変にて明智光秀に味方したことから常滑城を追われ、一族は没落した。一方、佐治氏も四代一成の時に小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と敵対し大野城を追われた。また、常滑の焼き物も茶の湯が流行する中で新しい嗜好からは好まれなくなり、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて瀬戸焼などに押され衰退した。
江戸時代には、現市域の村々は尾張藩領に入った。常滑の諸村は平地が少なく開墾の余地に乏しいことから廻船、酒造、木綿生産などの商工業が行われる町場的な性格が強く、常滑焼も江戸時代後期になって復興した。この時代には、かつて広く分散していた焼き物の生産地が現市域中心部にあたる常滑村に集中するようになり、焼き物の煙突が立ち並ぶ現市街地の原型が形作られた。

明治時代になると土管、タイルなども生産されるようになり、近代的な窯業の町に発展した。中でも1924年創立の地元製陶会社「伊奈製陶」(INAXを経て、現在のLIXIL)は便器など衛生陶器の分野において全国第2位のシェアを占め、タイルにおいては国内はもとより世界的にもトップとなる大企業に成長する。
第二次世界大戦後には「昭和の大合併」により、1954年に常滑町、鬼崎町、西浦町、大野町と三和村の4町1村が合併して成立した。1957年に南の小鈴谷町の一部を編入して現在の市域に拡大した。
2017年(平成29年)4月18日には、「きっと恋する六古窯 -日本生まれ日本育ちのやきもの産地-」の名称で、日本遺産に常滑焼、常滑の陶器の生産用具・製品、連房式登窯、無形文化財常滑焼の製作技術、やきもの散歩道と文化的景観などが登録された。

1954年(昭和29年)4月1日:常滑町、鬼崎町、西浦町、大野町と三和村の4町1村が合併して成立。
1957年(昭和32年)3月31日:南部にあった小鈴谷町の一部を編入し、現在の市域に拡大した。
2005年(平成17年)2月17日:市沖合の埋立地に中部国際空港が開港。

== 行政 ==

市長:伊藤辰矢(2019年4月26日就任、1期目)
歴代市長

市財政は窯業などの事業者からの税収のほか、常滑駅の近くに設置されたボートレースとこなめ(旧:常滑競艇場)で開催される市の競艇事業に支えられてきた。しかし近年は競艇の売上が落ち込み、進む高齢化に対して市の財政は悪化していた。
しかし、中部国際空港の開港によって税収が増加し、平成18,19年度は地方交付税の不交付団体となった(27,28年は外れている。地方交付税)。
平成の市町村合併では、当初知多半島5市5町の合併研究会が設置されたが廃止され、次いで知多南部2市4町による研究会が近い将来の合併を見送ったため、当面は現在の規模が維持されることになった。

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Quelle: Text: Wikipedia – „常滑市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: 経済特区, CC BY-SA 4.0 – Wikimedia Commons