銚子市: 歴史
=== 地名の由来 ===
銚子の地名は、利根川河口の形状が酒器の銚子に似ていることから生じたものである。銚子という器と名称は平安時代中期に成立した「和名類聚抄」に見られ、注ぎ口のついた酒器を指している。利根川は、川幅の広さに対して河口付近が非常に狭い特異な形状である。このため、狭い河口から河水が外洋に流れ出ている地形が、酒器の銚子の口から酒が注がれている状態に似ているとして、銚子の地名が起こった。
律令時代の銚子地方は「三前郷」といい、古代末期から中世初頭に荘園となってからは「三崎庄」と呼ばれるようになった。和語の「みさき」は陸地が海に突き出したところを意味している。近世になると、高神・飯沼・新生・荒野・小川戸・辺田・三崎・松本・長塚・松岸・垣根・芝崎・四日市場・余山・三宅・赤塚の諸村となった。銚子という地名は、これら諸村を包含した半島部を指す汎称であった。
銚子の地名が発生したのは、江戸時代の慶長から正保に至る半世紀の間である。慶長より早い時期から、太平洋沿岸を航行する海運用船舶は銚子湊に入港しており、これらの船舶の乗組員や海運関係者の間に、銚子口の地名が起こった。当初、銚子は利根川河口一帯の水域名であったが、やがて沿岸の陸地名となり、江戸との交通が頻繁になるにつれて江戸を中心に各地に伝播していった。この汎称は、近代に入って1889年(明治22年)に「市制町村制」が施行されたとき、飯沼村が本銚子町、新生村・荒野村・今宮村が銚子町となったことで初めて行政区画名となった。その2年後には、伊豆原村が西銚子町となっている。そして1933年(昭和8年)、これら3町と豊浦村(辺田・三崎・小川戸)が合併して銚子市が発足したことで、銚子は近代の単一都市名として成立した。
==== 旧石器時代 ====
銚子半島に人が住むようになったのは、約2万8000年前の旧石器時代である。下総台地上に野尻遺跡(野尻町)と三崎3丁目遺跡(三崎町)が発見されており、屏風ヶ浦の海蝕によって失われた台地上にも集落が及んでいたことが推測されている。出土品の中には、伊豆諸島神津島の黒曜石、北関東・東北地方の硬質頁岩等が含まれ、他地域との交易・交流があったことを示している。
縄文時代前期の遺跡は、愛宕山・荒野台に見られ、また、前期から中期の遺跡として粟島台遺跡(南小川町・西小川町・粟島町)、後期から晩期の遺跡として余山貝塚(余山町)があり、人々の生活の場が台地から低地へと変化したことを示している。粟島台遺跡から出土した石器のうち、琥珀玉・琥珀片・漆塗土器は特色あるもので、この地が重要な琥珀供給拠点であったことが伺える。余山貝塚は、日本考古学史上著名な遺跡で、多量の土器、貝輪、骨角器が出土している。下総台地を背景に三方を太平洋に望む銚子は狩猟・漁労に適し、また、琥珀等の天然資源に恵まれたことから、集落は相当に繁栄し、人々は豊かな生活を営んでいた。
銚子における弥生時代の遺跡としては、野尻遺跡や佐野原遺跡(三崎町)で竪穴建物跡が検出されており、下総台地上に集落の形成が認められる。野尻遺跡からは、稲作が行われていたことを示す炭化米が出土している。椎柴小学校遺跡(小船木町)からは東海地方の土器片が確認され、さらに佐野原遺跡からは、北関東・南関東地方の特徴を有する弥生土器が出土し、銚子半島が文化圏の境界に位置したことを物語っている。
==== 古墳時代 ====
古墳時代に入り、広大な下総台地一帯は下海上国造の支配地として繁栄し、その区域は、香取の海を隔てた常陸国鹿島郡南部から香取郡、匝瑳郡、海上郡に及んでいた。市内では椎柴地区や長塚見晴台周辺に大小の古墳が見られ、海上国造家の支配下にあった小氏族による造営と推測される。集落は下総台地及び利根川沿いの低地に形成され、大宮戸遺跡(春日町)からは赤彩が施された土器(柑)が複数出土している。また、椎柴小学校遺跡から出土した石製模造品には、北関東方面の緑色凝灰岩が用いられている。
※ 以下、1872年(明治5年)以前の月日は旧暦
大化改新以降、大和朝廷は中央集権的な地方制度の整備を進め、「和名類聚抄」は、奈良時代の東下総が海上郡15郷、匝瑳郡18郷、香取郡6郷となったことを示している。銚子半島には椿の海に面する農業集落、香取の海に沿う漁業集落が連なり、皇室直轄の三宅や船木部の郷もあったことから、中央政府や地方官庁の役人の往来も多かった。「万葉集」には、常陸国司高橋虫麻呂が中央から派遣された検税使大件卿を送って、常陸鹿島郡刈野橋に別れる際に詠んだ歌がある。歌の中にある三宅潟は常陸への渡津となっており、蝦夷平定の前進基地でもあった。
三前郷 - 銚子市東半部が該当する。遺名として三崎町がある。半島の地形から名付けられ、中世には三崎庄55郷を包括していた。香取の海に面した漁業集落から発祥した。
三宅郷 - 銚子市三宅町が遺名で、屯倉から起こった地名である。海上国造が大和朝廷に帰属した際、皇室御料の収納倉庫が置かれ、鎌倉時代に至るまで中央貴族の所領となった。
船木郷 - 船木町・小船木町が遺名である。造船の用材を扱う船木部の旧地で、「光仁天皇紀」には、776年(宝亀7年)7月、安房・上総・下総・常陸4ヶ国に命じ、軍船50隻を造らせて陸奥に送るとの記述がある。
集落としては、新農造跡(桜井町)や西町西遺跡(長塚町)に住居跡が確認される。奈良時代の戸籍に基づく当時の銚子付近3郷の人口は3900人である。
==== 鎌倉・室町時代 ==== …