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宮古市: 歴史

宮古市: 歴史

=== 盛岡藩の外港 ===
現在の宮古市の発祥は、盛岡藩主・南部利直によって盛岡藩(盛岡城下町)の外港として宮古の町が開かれたことに由来する。また現在の普代村から山田町豊間根までの行政を管轄する代官所が置かれ、周辺地域の政治、経済の中心地であった。江戸時代に三陸沿岸と江戸・関東とを結ぶ海運が盛んになると、沿岸漁村で産出される諸色や俵物を集荷し江戸へ移出するための拠点となり、前川善兵衛や鍬ヶ崎の和泉屋などの長崎俵物を扱う御用商人や、盛合家などの三陸の水産物を扱う有力商人や交易に携わる廻船問屋の活動が活発となった。また宮古は東廻海運の要港であり、海産物などの交易船や松前・東北諸藩が江戸へ参勤交代で必要な物資や米などを輸送するための廻船の重要な寄港地として、料亭や遊廓が軒を連ねる奥州でも有数の商港として賑わった。

戊辰戦争においては、蝦夷地にて独立を図る榎本武揚・土方歳三らの旧幕府海軍艦隊(蝦夷共和国軍艦隊。総司令官:荒井郁之助。旗艦「回天丸」[艦長:甲賀源吾])が、宮古湾の鍬ヶ崎湊(くわがさきみなと。現在の宮古港の前身)に停泊する新政府軍艦隊の主力艦である装甲艦「CSS Stonewall」(ストーンウォール[日本名:甲鉄艦]。1871年12月に「東艦」と改称)を奪取すべくアボルダージュ(接舷攻撃)作戦を決行した、いわゆる宮古湾海戦が勃発した。

古代の宮古地域は、須賀古麻比留のような村長達により治められていたと考えられている。平安時代には、遺跡の出土品から奥州藤原氏との関連があったことが判明している。鎌倉時代には鎌倉御家人の閉伊氏一族が土着し勢力を広げるが、室町時代以降は南部氏一族が勢力を拡大。九戸政実の乱終結後は宮古地域の村々はそれぞれ南部氏配下の武将による地方知行となり、近世に至る。
近世の宮古は北上山地に阻まれ、盛岡城下町など内陸部との往来や輸送が滞ることの多い土地柄であった。陸の孤島になりがちな当地の交通網の整備に尽力した僧・牧庵鞭牛らの功績は今もって賛えられている。宮古はまた、V字型の湾の両岸が奥に進むにつれて狭くなるリアス式海岸地形の特殊性によって津波の被害も大きく、古来より大規模な被害の出る津波に襲われている。
昭和時代に入ると国鉄山田線の開通とラサ工業の進出により近代港湾都市として発展。山間部では閉伊川筋の電力資源の開発に伴い、窯業・鉱業・木材工業関連の企業が相次いで設立された。第二次世界大戦後の高度経済成長期には北洋漁業やサンマ漁船の基地として賑わった。また木材港の整備により合板企業の集積が進んだ。1970年代には国道45号・国道106号線の全線開通と、宮古港の公共埠頭の整備により三陸海岸の拠点都市としての地位を高め、1980年代にかけてゴルフ場や国民休暇村・グリーンピアの設置などレジャーや観光業の発展が見られた。また1974年のヒロセ電機の進出により、コネクタ関連の日本有数の産業集積地となった。1984年には第三セクターの三陸鉄道が開業した。
平成時代の1992年にはJAPAN EXPO(地方博覧会)として三陸・海の博覧会が開催され、藤原地区にパビリオンが設置された。2011年には東日本大震災の津波により甚大な被害を受け、被災した市街地の再開発と、復興道路として三陸沿岸道路や宮古盛岡横断道路の高速交通インフラの整備が進められている。2018年には北海道室蘭市とのフェリー航路が開通したが、2020年に運航休止となった。

縄文時代前期初頭 - 後期前半(約6,000 - 約3,500年前。cf.):崎山貝塚の形成期(約2,500年間)。
白鳳9年(680年):横山に八幡宮(横山八幡宮)が創建されたと伝えられる。
貞観11年5月26日(869年7月9日):東北地方を貞観地震が襲い、三陸は津波によっても被害甚大。
天正20年(1592年):南部信直により田鎖城と千徳城が破却される(『南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上』)。

慶長16年10月28日(1611年12月2日):東北地方を慶長三陸地震が襲い、三陸は主に津波によって大きな被害が出た。
元和元年(1615年):盛岡藩主・南部利直が宮古を盛岡藩の藩港と定め、町割を行う。
寛永20年(1643年):山田湾にオランダ船が漂着するブレスケンス号事件が起きる。船員を誘き出すため宮古鍬ヶ崎の遊女が派遣される。
承応3年(1654年):閉伊街道(別名:宮古街道。現在の国道106号の前身)の大改修なる。
延宝5年(1677年):延宝十勝沖地震津波により数十軒の家屋が流出。
元禄13年(1700年):カスケード地震津波により数十軒の家屋が流出。
宝暦8年(1758年):宝暦の飢饉を契機として、牧庵鞭牛が閉伊街道最大の難所である蟇目 - 平津戸間の改修・新道開発に着手し、これ以降、閉伊地方と周辺地域の間にある陸上輸送の難を取り除くべく生涯を賭けて尽力する。
天明3年(1783年):鍬ヶ崎の市中で天明の大飢饉による米騒動が起きる。
享和元年(1801年):東日本沿岸を測量していた伊能忠敬一行が宮古に到着。豪商・盛合家の屋敷及び鍬ヶ崎の泉屋に滞在。
:江戸 - 蝦夷地間の航路調査をしていた学者の本多利明が、宮古滞在中に海運の重要性を説いた『長器論』を著す。
文化3年(1806年):幕臣の最上徳内が宮古に来訪。長崎俵物御用と称し宮古湾周辺の調査を行う。
文政6年(1823年):三戸郡五戸村(現・五戸町五戸)出身の豪商・藤田武兵衛らが閉伊街道を改修・新道開発する。
弘化4年(1847年):閉伊郡で東北地方最大の一揆・三閉伊一揆が勃発。

明治2年3月25日(1869年5月6日):宮古湾海戦が勃発。
1888年(明治21年):民営による宮古 - 塩釜間の定期航路が開かれる。
1896年(明治29年)6月15日:東北地方を明治三陸地震が襲い、三陸は津波によっても被害甚大。津波遡上高は重茂村(おもえむら。現在の宮古市重茂)で18.9 mを記録した。東閉伊郡田老村(現在の宮古市田老地区)では死者・行方不明者1,859人を出し、浸水した平坦地での生存者はわずかに36人であった。
1897年(明治30年)4月1日 - 郡の統合により北閉伊郡・中閉伊郡・東閉伊郡が合併して下閉伊郡が発足。
1902年(明治35年)3月1日:魹ヶ埼灯台に初めて灯りが点る。
1924年(大正13年):崎山貝塚で初めて発掘調査が行われる。

1927年(昭和2年)10月:宮古港が第二種重要港湾に指定される。
1928年(昭和3年)9月25日:国鉄(現・JR東日本)山田線で区界駅が開業。
1930年(昭和5年)10月31日:国鉄山田線で松草駅が開業。
1931年(昭和6年)10月31日:国鉄山田線で平津戸駅が開業。
1933年(昭和8年)
3月3日:東北地方を昭和三陸地震が襲い、三陸は津波によっても被害甚大。特に下閉伊郡田老村(現・宮古市田老地区)では、人口の42%にあたる911人が死亡、家屋の98%が全壊し、壊滅状態となった。東日本大震災(2011年)の折、先人訓として活きた大津浪記念碑はこの後に建立された。
11月30日:国鉄山田線で川内駅、箱石駅、陸中川井駅が開業。
1934年(昭和9年)11月6日:国鉄山田線で腹帯駅、茂市駅、蟇目駅、千徳駅、宮古駅が開業。
1935年(昭和10年)11月17日:国鉄山田線で磯鶏駅と津軽石駅が開業。
1936年(昭和11年):ラサ工業田老鉱業所(田老鉱山)が本格稼働。
1939年(昭和14年)
6月:ラサ工業宮古工場が操業開始(これに先立ち、ラサの煙突も竣工)。
9月7日:崎山の潮吹穴が国の天然記念物に指定される。
1942年 (昭和17年)
6月20日:市章を制定する。
6月25日:国鉄小本線(JR岩泉線の前身)で岩手刈屋駅、岩手刈屋駅、岩手和井内駅が開業。
1944年(昭和19年)7月20日:国鉄小本線の貨物駅として押角駅が開業。
1945年(昭和20年)8月9日・10日:太平洋戦争下で、米第3艦隊の空母「エセックス」「ランドルフ」の艦載機による市街地への空襲。藤原地区に大きな被害。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „宮古市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Yasu (talk), CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons