Heimatgeschichte · Goshogawara ·

五所川原市: 歴史

五所川原市: 歴史

=== 年表 ===
本節では、例えば「16世紀後半(戦国時代後期)」と「戦国時代末期(16世紀末か17世紀初頭)」という表記が混在するが、それぞれに「16世紀後半」と「戦国時代末期」が出典での表記で、( )内は添付情報である。

後氷期初頭(新生代第四紀完新世初頭) - ヴュルム氷期(最終氷期)が終焉したことによる全地球規模での気温上昇に伴い、日本列島周辺でも海面上昇が始まる。本州島北端部では峡谷への海進が始まり、十三湖の湾入が出現、岩木川による堆積作用が波及して谷の埋積が進捗し、津軽平野の形成が始まる。
縄文時代前期 - 相内露草地区にて、オセドウ遺跡(通称:オセドウ貝塚遺跡)の形成期の始まり/当遺跡の考古学的価値は主として縄文時代にあるが、平安時代の終焉期までの長きに亘る繁栄を確認できる。しかし中世に入って衰退を見せ、消滅している。
約3500年前(縄文時代後期後葉) - 相内地区にて、五月女萢遺跡(そとめやち いせき)の形成期の始まり/10世紀前半(平安時代中期)まで栄える。

奈良時代 - 十三湖内の中島にて、中島遺跡の形成期/この遺跡は、津軽地方における奈良時代の標式遺跡となっている。
10世紀後半(平安時代後期) - 陸奥国津軽鼻和郡の現・相内地区にて、福島城の築城。

13世紀初頭(鎌倉時代後期前葉) - 十三湊(とさみなと)が、豪族・安東氏(津軽安東氏)の本拠地として、和人と蝦夷地のアイヌとの間の重要交易拠点として栄え始め、次第に隆盛に向かう。換言すれば、十三湊遺跡の形成期の始まりである。
興国元年(暦応3年、西暦換算:1340年、南北朝時代初期) - 大海嘯(大津波)で十三湊が壊滅的被害を受けて衰退したとの伝承あり。しかしながら、発掘調査で津波の痕跡は検出されておらず、続く時代の史料との整合性も見られない。
14世紀(南北朝時代全期および前後数十年) - 十三湊の拡充と隆盛。
15世紀半ば(戦国時代初頭) - 安東氏(津軽安東氏)が南部氏に敗れて支配地を失い、夷島(えぞがしま。蝦夷地のこと)へ逃げる。十三湊はこれによって急速に衰微し、和人・蝦夷間の交易拠点としての地位は、野辺地湊(のへじみなと。野辺地湾に面する湊。盛岡藩の北の門戸として江戸時代に隆盛。現在の上北郡野辺地町域にあった) や大浜/大濱(現在の青森市油川地区にあった湊で、15世紀末~16世紀に隆盛)に奪われる。
文明年間(1469年-1487年) - 成立時期については定説が無く戦国時代末期(16世紀末か17世紀初頭)などとする説もあるが、日本最古の海洋法規集『廻船式目』が、恐らくは瀬戸内の海賊衆の下で成立する。同書は「三津七湊」について記しているが、七湊の一つとして「奥州津軽十三湊」の名で十三湊を挙げている。ただし、実際の十三湊の隆盛期は津軽安東氏の没落と共に終焉を迎えている。
16世紀後半(戦国時代後期) - 十三湊が再び整備され、復興が図られる。

近世以降 - 十三湊(とさみなと)の異訓として「じゅうさんみなと」が見られるようになる。
江戸時代全般 - 岩木川を下ってきた米を十三湊から鯵ヶ沢湊(現在の西津軽郡鰺ヶ沢町域にあった湊)へと運ぶ「十三小廻し」が行われていた。
寛文元年(1661年、江戸時代初期) - 八幡宮の創建。
元禄年間(1688年-1704年、江戸時代初期) - 弘前藩第4代藩主・津軽信政の命により、北津軽の新田開墾事業が推し進められる/この時期、溜池も灌漑用水源として数多く築造された。現・五所川原市域では境野沢溜池や藤枝溜池が代表的である。

1888年(明治21年)3月21日 - 原子山元にて、七和郵便局の開局。
1889年(明治22年)4月1日 - 全国で町村制が施行され、北津軽郡では行政村として五所川原村を始めとする23か村が成立。
1898年(明治31年)7月1日 - 五所川原村が単独で町制を施行し、五所川原町を発足する。
1907年(明治40年) - 北津軽郡金木村金木朝日山(のちの金木町朝日山、現・五所川原市金木町朝日山)にて、津島源右衛門邸宅の竣工/この邸宅は、太宰治の生家であり、現在は太宰治記念館 「斜陽館」となっている。
1909年(明治42年)6月19日 - 金木村の津島邸で、源右衛門の六男・修治(太宰治)が誕生。
1912年(明治45年) - 五所川原の林旅館が、五所川原─大釈迦間で乗合バスの運行を開始/のち、津鉄バスに発展する。

1918年(大正7年)9月25日 - 陸奥鉄道の川部駅─五所川原駅間が開通。
1922年(大正11年)
長谷川水戸口顕彰碑の建立。
太宰治の兄・津島文治夫婦が、津島邸に隣接する新居として津島家新座敷を完成させる/この邸宅は、父の建てた津島邸(母屋)を処分した後の新たな津島邸となり、その後の現在は「太宰治疎開の家・旧津島家新座敷」となっている。

1928年(昭和3年)2月24日 - 大町に本社を置く、津軽鉄道株式会社の設立。
1935年(昭和10年)8月22日 - 豪雨のため浸水家屋多数。炊き出しが行われ、同月26日までの5日間で延べ32000人以上が利用した。
1936年(昭和11年)7月30日 - 五能線が全通。駅前にはアーチが設けられ、翌31日には提灯行列が行われた。
1946年(昭和21年)11月23日 - 錦町から発火し大火となる。
1948年(昭和23年)
6月13日 - 太宰治が東京の玉川上水で愛人と心中を遂げる。
6月23日 - 五所川原抗争事件発生。
6月 - 太宰治の兄・津島文治夫婦が、津島邸の母屋の売却を決め、新座敷をわずかに移設して新たな津島邸とする。
1950年(昭和25年) - 津島家(太宰治の実家)が、太宰の生家でもある金木町の邸宅を売却する。買い取ったのは町内の旅館経営者で、太宰治文学記念館を併設した旅館「斜陽館」として改装され、太宰ファンの多数訪れる観光地となる。
1952年(昭和27年)11月26日 - 五所川原税務署襲撃事件の発生。
1954年(昭和29年)10月1日 - 五所川原町、栄村、中川村、三好村、長橋村、松島村、飯詰村が合体(新設合併)し、五所川原市(第1次五所川原市)を発足する。
1955年(昭和30年)3月 - 津鉄バスが弘南バスに買収される。
1956年(昭和31年)
9月30日 - 五所川原市が、北津軽郡七和村(下石川を除く)を編入。
11月1日 - 五所川原市が、北津軽郡鶴田町の梅田と中泉を編入。

1958年(昭和33年)
4月1日 - 五所川原市が、西津軽郡木造町の小曲を編入。
青森県が、大沢内溜池と周辺地域および藤枝溜池と周辺地域を、芦野池沼群県立自然公園に指定。
1971年(昭和46年) - 新たな五所川原市役所本庁舎(2代目)の竣工。
1975年(昭和50年)3月31日 - 環境庁が津軽国定公園を指定。現・五所川原市域では旧・十三村域にある十三湖が指定区域に含まれる。
1977年(昭和52年)7月20日 - 栄町にて、五所川原市立図書館の開館。
1983年(昭和58年)11月19日 - 芦野池沼群県立自然公園に指定区域の変更あり。
1985年(昭和60年)11月6日 - 五所川原市と北海道上ノ国町が姉妹都市の盟約を締結。 …

von Fremdinhalte · Regionauts

Quelle: Text: Wikipedia – „五所川原市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: 663highland, CC BY 2.5 – Wikimedia Commons