能代市: 歴史
能代が初めて文献に登場したのは斉明天皇4年(658年)、阿倍比羅夫が蝦夷征伐のために「渟代」(ぬしろ)に上陸したことで、これは日本書紀に記されている。また、宝亀2年(771年)には「野代湊」(現能代港)に渤海の使節来港、宝永元年(1704年)には現在の「能代」に改称という記録がある。ただし、厳密にはこれらの地名は現在の能代周辺を指すのではなく、渟代は八郎潟湖以北の主に海岸部を、野代は米代川流域を指したものであったと考えられている。その後は中世に檜山安東氏が檜山城を築き、明治には材木の加工が活性化するなどして港の交易を中心として発展した。
能代の地名は『日本書紀』において「斉明天皇4年(658年)4月、越国守阿倍比羅夫が軍船180隻を引いて蝦夷を伐つ、齶田(飽田)・渟代二郡の蝦夷望み恐じて降わんと乞う」と「渟代」の名で登場して以後1300年以上続いている。これは現在の秋田である齶田と並んで県内でも有数の歴史ある地名といえるものである。当時の渟代の読みである「ヌシロ」という地名の由来を、当時この地方に居た蝦夷すなわちアイヌの言語で「台地上の草原地」を意味するという「ヌプシル」(nup-sir) からの転語とする説もあるが、正確な語源は定かではない。
『続日本紀』では「宝亀2年(771年)渤海使青綬大夫・壱万福等325人、船17隻に駕し出羽国賊地・野代湊に着く」と「野代湊」の名が記され、「渟代」から「野代」へと表記が変わっている。
野代から能代への漢字の変遷は、元禄7年(1694年)および宝永元年(1704年)に大震災が起こり、「野代」という地名が「野に代わる」と読めることから、「よく代わる」と読める能代と改めたためである。実際に能代に改名してから1983年の日本海中部地震が起きるまでは地震の被害はなかった。なお、渟代という地名は現在も渟城(ていじょう)という字をあて小学校の校名など一部で使われている。
1940年(昭和15年)10月1日 - 山本郡能代港町・東雲村・榊村が新設合併し、能代市が発足。
1942年(昭和17年)4月1日 - 山本郡扇淵村を能代市へ編入。
1949年(昭和24年)2月20日 - 能代大火(第一次)。市内の清助町の工場から出火し、市役所のほか、家屋2044戸が全焼。死者4人、負傷者150人。
1955年(昭和30年)4月1日 - 山本郡檜山町・浅内村・鶴形村・常盤村を能代市へ編入。
1956年(昭和31年)3月20日 - 能代大火(第二次)。
1961年(昭和36年)10月 - 第16回国民体育大会軟式野球競技が能代市営球場で開催。昭和天皇、香淳皇后が行幸啓。
2006年(平成18年)3月21日 - 能代市と山本郡二ツ井町が新設合併し、改めて能代市が発足。
2017年(平成29年)1月4日 - 市役所の新庁舎が第1庁舎南隣に完成し、この日より新庁舎での業務を開始する。