Heimatgeschichte · Tomisato ·

富里市: 歴史

富里市: 歴史

=== 中世 ===
富里には広大な原野が広がり、台地上には牧があった。その起源は定かにされていないが、平安の頃からと伝えられている。中世の時代の牧については不明な点も多いが、北条氏康が1583年(天正11年)千葉邦胤に命じて両総の原野に牧を開設したとされる。

江戸幕府により佐倉七牧とされ幕府直轄牧場となった。その面積は17,270ヘクタールにも及び、馬の数は約3,000頭であった。その佐倉七牧の一つ「内野牧」は七栄を中心として、西は酒々井の東端、東は根木名までの約6キロメートル、南は南大堀、北は現在の成田ニュータウンまでの約8キロメートルに渡る、面積は約2,210ヘクタールとされる。内野牧の下には、高野牧があり、富里の高野が中心となった。

幕藩時代、1頭辺り、5ヘクタールの広い原野で飼育された放牧馬の制度は、明治政府による解放令により職を失った下級武士や路頭に迷った江戸庶民に新政府が困窮民対策として牧場の開拓が実施された。開墾が始った順に字名が付けられた村名に由来し、富里には七栄、十倉の地名が現在も残る。
しかし、原野の大地に挑戦した多くの人々が準備や施設の不充分な中で過酷な生活に耐えかね土地を去る者も少なくはなかった。また1875年、七栄集落から発生した火災により、更に開拓民の数は激減した。
その後、十倉村両国地区に内務省勧業寮本庁が設置され、1875年、下総牧羊場・香取種蓄場が開設された。後の1888年、宮内省管轄の「下総御料牧場」と改称された。

第二次世界大戦終戦後、同じく官有地が民間へ払い下げられ、多くの開拓民が入植した。
1962年(昭和37年)、池田勇人内閣のもとに、第二国際空港建設が閣議決定され、1963年(昭和38年)9月に突如「富里・八街地域設置案」が浮上した。そのため、村民は各地区1名ずつを対策委員として選出し対応策を協議した。村民の大半は反対意向で、同年10月1日には富里村空港設置反対期成同盟が組織され、以降は反対運動が活発化し、反対陳情はもとより、ときには耕耘機デモが実施された。一方、少数派ながら賛成派の住民もあり、富里村空港誘致促進同盟も組織されていた。政府内部の調整が遅れていた約三年間は空港設置の本命候補地とされていたため、その期間中の村の事業計画は立案遂行されなかった。1966年(昭和41年)6月に政府は「三里塚」案を示し、7月に閣議決定したため、市内での空港問題は沈静化した。なお、成田市三里塚は空港が建設された場合の移転農家代替地として候補した地区であった。

2012年(平成24年)、三菱地所より富里市に旧岩崎家末廣別邸が寄付された。敷地は2013年2月28日に同市の市指定史跡とされ、2013年12月24日には主屋、東屋、石蔵が近代和風建築としての価値を認められ、本市で初めて国の登録有形文化財に登録された。

1889年(明治22年)施行の町村制の際、13村が合併して「十三の里」(里はむらの意味)と言っていたことから「十三里」→「とみさと」→「富里」となった。

1889年(明治22年)4月1日 - 印旛郡日吉倉村、久能村、大和村、根木名村、七栄村、新橋村、中沢村、新中沢村、立沢村、立沢新田、高野村、高松村及び十倉村の区域をもって、印旛郡富里村が発足する。
明治の大合併以降、合併を行っていない数少ない自治体のひとつでもある(千葉県内では富里市・習志野市・鎌ケ谷市・浦安市の4市と印旛郡酒々井町の1町のみ。)。
1985年(昭和60年)4月1日 - 町制施行して、富里町となる。
2002年(平成14年)4月1日 - 市制施行して、富里市となる。

== 人口 ==
2015年(平成27年)の国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、2.84%減の49,636人であり、増減率は千葉県下54市町村中27位、60行政区域中33位。
人口流出は続き、2024年(令和6年)における人口に対する転出超過の割合(転出超過率)は3.61%と、市町村間の比較で全国5位の値となっている。
2022年時点で、市民の5.6%に当たる2,753人の外国人が居住しており、この割合は県内自治体の中で最高となっている。

von Fremdinhalte · Regionauts

Quelle: Text: Wikipedia – „富里市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: そらみみ  This photo was taken with iPhone 5, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons