Heimatgeschichte · Hikari ·

光市: 歴史

光市: 歴史

=== 前史 ===
島田川右岸には高地性集落の跡もみられることから遅くとも弥生後期には何らかの社会的生活が営まれていたことがうかがえる。市北西部は小周防の地名が残り、旧周防国の周防はもともとこのあたりを指したという説もある。
室積湾は古くは御手洗湾と呼ばれ、古代の海上交通の要衝だったと思われる。その名は神功皇后が三韓征伐に赴く際にこの湾に船を寄せて手を洗ったという伝説に由来する。また、峨眉山山頂にある杵崎社の縁起に、大伴狭手彦率いる新羅征討軍が沖合で時化に遭い、太刀を海に投じて風神に祈ったところ、現れた数多の亀に導かれ御手洗湾に兵船を入れて難を逃れたことから、風神を祀るために社を建立したとある。

江戸時代、毛利藩は領内に支藩と宰判を配置したが、室積には熊毛宰判が置かれた。この地は北前船の西回り航路の寄港地となっていたこともあって商港として大いに栄えた。このため、後に山陽本線の前身である山陽鉄道の鉄道敷設計画では、当初室積村を経由して、現在の国道188号線に沿ったルートとなる予定であった。しかし、室積村の住民が「汽笛で魚が逃げる」「宿場が寂れる」などとして強硬に反対したため、難工事の続く島田駅、岩田駅、田布施駅を経由するルートに変更を余儀なくされた(鉄道忌避伝説)。
また、幕末には室積村の普賢寺に第二奇兵隊屯所が置かれ、後に石城山山頂に移った。

戦前は島田川の河口部から光井川にかけての海岸を埋め立て、光海軍工廠が置かれた。現在の国道188号線が正門町から室積にかけて直線になっているのは、海軍工廠の滑走路を兼用する予定であったためといわれている。終戦前日の1945年(昭和20年)8月14日に海軍工廠はB29爆撃機による空襲を受け大打撃を蒙った。
山口県徳山市(現・周南市)には、日本海軍の第3海軍燃料廠が設置されていた(これが、今の周南石油化学コンビナートの源である)。広島県呉市の軍港から出港した連合艦隊は、この徳山で燃料を補給して、外洋へ出征していた。このため、山口県の徳山市、下松市、光市沖の海域は、連合艦隊の集結地であった。
このことに関して、作家の吉村昭は次のような文章を書いている。

戦後海軍工廠跡地は、しばらく一部が国鉄用地として利用されるほかは未利用地となっていたが、その後八幡製鐵、武田薬品工業などの工場を誘致し、工業地帯に変わった。これにより当地は企業城下町となったとともに、瀬戸内工業地域の一角である周南工業整備特別地域を形成することになった。
こうして周南地区として一体的に発展を始めると「周南合併」の機運が高まりはじめた。また、県も光市のほかに徳山市・新南陽市・下松市と都濃郡鹿野町・熊毛郡熊毛町・大和町・田布施町の4市4町を「周南広域圏」に指定し、合併機運の高揚を待った。こうした背景から平成の大合併よりはるか以前から周南都市合併調査研究会が設置されていたが、1997年(平成9年)の「周南合併推進協議会」発足時に光市、大和町、田布施町が離脱、また2002年(平成14年)には合併の期日等を巡り下松市が離脱し、残る2市2町による周南市が誕生する一方で、光市と大和町は1市1町で合併することとなった。そのため、大和町出身である初代内閣総理大臣伊藤博文の出身地ということになった。なお、田布施町は柳井市と光市との合併を模索するも合併の組み合わせを巡り協議が物別れに終わり、単独町制を継続している。

1943年(昭和18年)4月1日 - 光町・室積町が新設合併して光市が発足。
1955年(昭和30年)7月1日 - 周防村を編入合併。
1957年(昭和32年)4月10日 - 大字立野の一部を大和村に編入。
2004年(平成16年)10月4日 - 大和町と新設合併し、改めて光市が発足。

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Quelle: Text: Wikipedia – „光市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: ja:user:Wiki708, CC BY 3.0 – Wikimedia Commons