Heimatgeschichte · Kikugawa ·

菊川市: 歴史

菊川市: 歴史

=== 古代 ===
古代よりこの周辺には人が生活していたようである。近年の遺跡の発掘で大規模なものには、弥生時代後期の環濠集落である東原田遺跡がある。出土した柱や鉄器類などは、中央公民館に展示されている。それ以外にも横穴式住居跡など、多くの遺跡が散見される。
飛鳥時代の律令制の下で、遠江国が置かれると、それに属した。
古墳時代の大化の改新の後、北部に荒木郷、東部に河上郷、南部に高橋郷が記録に残っている。

中世には付近一帯は荘園であった。当地には本所、半済、公文名など、荘園であったことを示す地名が残っている。
平安時代末期から源氏の系統の横地氏が横地城を築き横地周辺を支配していたようである。また、工藤氏の流れを汲む内田氏が、高田大屋敷を拠点に内田周辺を支配していたようである。両者とも鎌倉時代には、鎌倉幕府の御家人として長くこの地域を支配したようである。
室町時代においても、遠江国守護であった今川氏の下、国人となった横地氏がこの地域を支配していた。しかし、15世紀半ばになると遠江国守護が斯波氏に代わったことや、応仁の乱の勃発により、横地氏は斯波氏に接近し今川義忠に背いた。このため、今川氏の討伐を受けた横地氏は滅亡し、この地域は今川氏の支配下に入った。しかし、今川義忠は帰国の際に、塩買坂で横地氏の残党に襲われ戦死した。後に、義忠の子の今川氏親が義忠を弔うために、塩買坂に正林寺を建立した。このころ内田氏は本拠地を石見国に移したようである。1504 - 20年ごろ、今川家臣の松井信薫が下平川に堤城を築城しこの地域を支配した。松井信薫は厚く仏法を信じ、同地に曹洞宗の深谷青龍院を建立し、現掛川市各和の永源寺から二世天庵和尚を招いて開山した。青龍院には信薫夫妻の位牌が安置されている。下平川志端の宇洞にある十三仏は、信薫夫妻が建立した瑞泉寺が廃寺となった際に移したものであるといわれている。
戦国時代後期になると、今川氏の滅亡により、徳川氏と武田氏が領有を争う。徳川軍は、武田軍に落とされた高天神城の攻略のために、天正7 - 8年ごろ(1579 - 80年ごろ)嶺田に獅子ヶ鼻砦を築き、大須賀康高が守った。1581年に高天神城が落城すると、再び徳川氏の支配下に入った。1590年の徳川氏の関東移封により一時豊臣氏系の領主に統治者が変わるものの、関ヶ原の戦い以後は再び徳川氏が支配した。
徳川家康と武田勝頼が高天神城を巡って戦った時には、この周辺からも徳川方として武士達が高天神城に篭城した記録がある。その武士の一人に、後の黒田代官の先祖にあたる黒田義則がおり、高天神城が落城した時に帰農している。現在残る黒田家代官屋敷の前身は、元々今川家臣だった黒田義則が永禄年間に築いた館である。
また、相良を起点とし、長野県に至る塩の道の通り道であり、旧小笠町の川上やいくつかの寺社などには塩の市場があり、塩の交易が行われていた。前述の今川義忠が戦死した塩買坂もその塩の交易ルートとしの地名が残っているものである。この塩の道による縁が、旧小笠町と長野県小谷村の姉妹都市提携のきっかけになった。この塩の道は今川氏真による武田信玄への塩止めと上杉謙信の「敵に塩を送る」の逸話に関わっている。

近世においては幕府直轄領、大名領、旗本の知行地が点在する地域であった。当時の記録には村ごとに様々な領主の名前が見られる。菊川水系全域では大よそ4万石以上の生産力があったが、幕府は統一的に支配する藩を置かず、旧菊川町域だけでも33の村が19の領主に分割されており、1つの村が2人以上の領主に分割統治されていたところも多かった。この地域に知行をもっていた大名で著名な者としては、相良藩主田沼意次などがいる。
このように、多数の領主に分割統治されていたため、菊川は河川改修などが進まず都市化もされなかった。一方で、農民達の生活は村の境を越えて物資の往来を行い、掛川まで物資を求めていた記録がある。生活圏と政治圏の矛盾がこのころの大いなる課題であったようである。
また、近世に入る時期に前後して、三浦刑部親子により加茂用水が、中条右近太夫により嶺田用水が引かれ、農業生産高が大いに上がったとされている。用水の工事を中条右近太夫が徳川家康に直訴したと言われるのも、領主の混在により村の境を越えるような大規模な工事は、幕府権力をもって行うしかなかったからである。
正保2年(1645年)1月、本多忠利が死去し、その庶子であった本多助久が別家を起して下平川周辺を領すると、嶺田に土着し帰農していた黒田家が代官に任じられた。黒田家が居住した黒田家代官屋敷は現存し、国の重要文化財に指定されている。
幕末になると、時代の変化がこの地域にも影響を与え始めているのが記録から垣間見える。天保期(1830~1844年)以降、度重なる水害などが農民の生活を圧迫し始め、村々の水争いすら調停できない領主や村役人の権威は次第に低下していった。1837年に大塩平八郎の乱が起きるが、この時の反乱を起した民衆側の檄文が神尾村の松下家にもたらされている。これは、領主の境を越えた民衆の情報伝達ルートが全国に張り巡らされていたことを示している。1853年のペリー来航の際に、この地域の領主の一人であった青山下野守が江戸表の警備を幕府から命ぜられ、菊川地域の農民から弓や鉄砲を扱えるものを徴用しており、兵農分離・身分制度の崩壊が始まっていたことを表している。1865年の幕府による長州征伐は、この地域にも大きな経済的負担を与え、民衆の不満はますます高まっていった。1868年に戊辰戦争が勃発すると、この地域も、新政府側と幕府側のどちらにつくかの選択を迫られた。ここにおいて、浜松藩、掛川藩、横須賀藩、相良藩は新政府側につく請書を提出し、農民たちも勤王の請書を提出している。農民たちは新政府軍のために物資の輸送を行い、兵隊として軍に加わった農民もいる。 …

von Fremdinhalte · Regionauts

Quelle: Text: Wikipedia – „菊川市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Sui-setz, Public domain – Wikimedia Commons