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笠岡市: 歴史

笠岡市: 歴史

陸地部では縄文時代の「津雲貝塚」が西大島地区で見つかっており、原始時代からの人の居住が確認されている。また島しょ部では奈良時代の「大飛島洲の南遺跡」が見つかっている。
天然の良質な港湾を持つため、中世より中国地方山間部(特に現在の庄原市東城町・高梁市川上町・成羽町)への街道も整い物流で大いに栄え、戦国時代には陶山氏や村上水軍の所領となった。江戸時代には福山藩となりその文化的な影響を受けるとともに、藩主導の新田開発により市街地を広げてきた。廃藩置県後当初は福山県となり、後に一時笠岡に県庁が置かれたが、最終的には福山とは分断され岡山県となった。

市域には丘陵地が多く平地が少ないため、農地を確保するために古くは江戸時代より備後福山藩などによって吉浜・大島地区などで大規模な干拓が行われてきた。戦後、市の南東部(富岡湾)や南西部(笠岡湾)で干拓が行われた。特に国営事業として1966年から岡山県と日本鋼管によって行われた笠岡湾干拓地事業では笠岡諸島の一番本土寄りであった神島までの笠岡湾を大規模に干拓し1989年に完成した。これにより広大な農業用地および工業地域が造成された。笠岡湾干拓地は広大な平地であるが減反政策により水田が作られなかった。また完成後には土壌の塩類化が発生したため、塩類耐性が比較的高い野菜類や牧草の栽培が多い。近年では広大な平地を利用し植物工場など高度な技術を用いた先進的な農業生産が行われている。

1960年に北川村を編入以後、笠岡市は市町村合併を行っていない。
平成の大合併時には浅口郡内の各町、井原市、小田郡矢掛町などとの合併も検討されるがいずれも実現しなかった。特に隣接する里庄町に対しては笠岡市からの呼びかけもあったが、経済的に豊かな里庄町は単独存続を表明し不成立となった。
昭和期に笠岡市茂平地区などが笠岡市からの分離と福山市への合併を求めた事例がある(後述の茂平村越県合併騒動)。また近年でも笠岡市との合併について福山市は「今後は,先の地方制度調査会の『今後の地方自治制度のあり方に関する答申』にあるように,道州制などの論議が進み具体の形が明らかになってくれば,こうした合併論議も自然な流れの中で行われるようになり,具体的な視野に入ってくる可能性は大いにあるものと認識している」としている。

1963年(昭和38年)頃、市南西端の旧茂平村地区(3.4km2/160戸/802人)が笠岡市(岡山県)より分離、福山市(広島県)との越県合併を模索した騒動である。

背景
江戸期福山藩領であった旧茂平(もびら)村地区は廃藩置県後、福山との間に県境が引かれた後も境界に河川などの天然障壁はなく、福山市域との結びつきの強さと岡山県側からの交通の便の悪さから歴史的にも再三広島県側と合併が求められてきた。当時、国営笠岡湾干拓事業は事業化決定前の調査段階であり、茂平村から笠岡湾に隔てられた笠岡市中心部へ陸路でアクセスするためには県境を越えた最寄り駅である大門駅(広島県)からの鉄路及び内陸部の山を抜け笠岡湾を迂回する大回り経路を取る必要があった。また笠岡市自体も金浦町との対等合併による市制施行から僅か10年ほどで市としての一体感は小さく茂平村住民からの帰属意識が少なかった。なお旧茂平村地区は笠岡市、福山市の中間に位置し当時両市の人口規模はほぼ同程度であった。
戦後の岡山県は岡山市出身の三木行治行政の下、全国総合開発計画(全総)に合わせて指定された新産業都市「岡山県南地域」の中核に水島臨海工業地帯を置き、県勢振興の根幹事業として県の威信をかけ集中的に資源を投下していた。また県は岡山市、倉敷市、児島市を中心に33市町村を統合し、国内主要都市級の新都市を目指す「岡山県南百万都市建設計画」を推し進めていた。
しかし、県境の縁辺都市である笠岡市はいずれの対象ともされず、農業など旧来の延長上の緩やかな経済復興が目論まれていため、住民の間には中央偏重政策をとる県政への不満がくすぶっていた。一方で福山地区は全総により備後工業整備特別地区に指定され、鉄鋼業や造船業を核に経済発展が加速度的に進むが、笠岡市を含む岡山県側市町村は行政区画が異なることなどを理由に当初は指定を見送られ、福山市との間に大きな温度差が生じていた。このように周囲の発展から取り残された笠岡市のさらに外縁にある茂平村地区住民には福山市への編入による地位向上や生活改善への希望が広がっていた。

騒動の経緯
1961年、日本鋼管の世界最大規模の新工場が茂平村地区、広島県深安郡深安町、福山市沖へ進出することが決定。それに伴い、1962年に深安郡深安町が福山市と合併、茂平村地区が福山市と隣接するようになる。当時、福山市は経済面、人口面の規模が急拡大、松永市との合併による大規模な市の誕生も見込まれていた。また鋼管建設に茂平地区から多くの住民が越境し従事したことに加え、福山市では宅地造成により地価が急激に上昇しており県境を超えた西隣野々浜地区も塩田の広がる寒村が近代的な団地の立ち並ぶ市街地へ生まれ変わろうとしていた。更に1963年岡山県の東端和気郡日生町福浦が強い住民運動の末岡山県から分離、兵庫県赤穂市に編入。このような状況に地区住民のほとんどが福山市との合併に賛成し福山市合併協議会(高田六次会長)を1963年8月4日に結成し、

広島県特に福山市と血縁関係が濃く地区民の80%以上が関係している
官庁関係を除く大部分の労働者が福山市内に職業を持っている
商店の仕入れ住民の買物遊び場は福山市に求められている
福山市は鉄鋼コンビナートの建設が進み経済発展が進むが笠岡市はのんびり構えている
福山市の上水道は隣の大津野まできており合併すれば茂平地区まで給水可能である
これらの理由から合併を求める大々的な運動を起こした。広島県議会議員中川弘(当時。のち福山市長に就任)賛同の下、福山市議会議員の推薦も得た。また、合併運動は旧城見村内で旧茂平村地区と同じ境遇の旧用之江村地区、大宜(おおげ)村地区へと広がった。そして合併協議会は有権者の9割を超える494人(漁協関係者と家族など32人は福浦の問題を受け署名を見送った)の署名を集め、1963年9月13日に笠岡市・小野博市長、黒田照太市議会議長に、10月8日には福山市・徳永豊市長、福山市議会に陳情書(合併請願書)を提出した。

騒動の終結
合併運動は主要メディアに取り上げられ、合併請願書が提出されると岡山県、県議会、笠岡市議会、漁業権を失うことを懸念した漁業協同組合などから大々的な反対運動が起こった。茂平地区が第2の福浦となり、単に生活圏や目先の利益を理由に県の区域が次々に他県に奪われる事態となる事を懸念していた岡山県は特に激しく抵抗した。住民の賛否が拮抗した福浦地区以上に茂平村地区では合併賛成住民が多いことから町村合併促進法(法律258号・昭和28年改正)11条の2「当該市町村や都道府県に地域・部落の分離の意見が採用されない場合も内閣総理大臣の勧告により住民投票が請求できる」による住民投票が行われると合併派有利の結果となる公算が大きく、住民による合併運動を阻止するため県からの干渉や県議員の来訪も続いた。翌年(1964年)、三木知事の急逝により、11月12日に笠岡市出身の加藤武徳が県知事に就任すると反対運動はさらに大きくなり、三木県政への反省と茂平村地区など県地方部のさらなる開発の推進を約束したこともあり騒動は収束した。また加藤県政の下、1965年3月12日には長年の懸案であった備後地区工業整備特別地域への笠岡市の追加指定が実現、1972年9月15日には水源に乏しい茂平村地区の住民の年来の悲願であった上水道への接続が高梁川から笠岡市を経た送水により叶った。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „笠岡市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Carpkazu, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons