Heimatgeschichte · Tagawa ·

田川市: 歴史

田川市: 歴史

=== 明治から1960年代にかけて ===

現在の田川市域は、猪位金村猪膝が小規模な宿場町であったほかは、いずれも純農村地帯であった。明治18年に田川地方は海軍予備炭田に指定され、新たな坑口の開設が制限されていたが、明治22年に制限が解除されるとともに、田川採炭会社が大規模な坑口を後藤寺に2カ所、伊田に1カ所開き、やがて田川市の二大核心となる素地をつくった。
明治年間から小規模ではあるが後の三井田川炭鉱の開発が始まり、1904年(明治37年)に三井財閥系の三井鉱山(現日本コークス工業)に経営権が移る と仕事を求めて全国から移住者が訪れた。
1918年(大正8年)8月、福岡県一帯に米騒動(1918年米騒動)が起きると、同年8月19日には、町内にあった三菱系の北条炭鉱でも作業員などが集結。炭鉱の物品販売所などを襲撃して放火、駆け付けた警察や軍とにらみ合いになる出来事があった。
田川は筑豊最大の炭都として栄え、1943年に後藤寺町と伊田町が合併し、田川市が誕生。
戦後、1949年(昭和24年)5月20日には、市役所などに昭和天皇の戦後巡幸があった。三井中央グラウンドが奉迎場となった。
1950年代には人口が10万人を突破する一方で、1955年(昭和30年)6月16日には三井田川鉱業所の第3坑内でガス爆発が発生し、5人が死亡、16人が重軽傷を負う事故も発生した。
1960年代のエネルギー革命でエネルギー源が石炭から石油に転換すると、石炭産業にかげりが見え始めた。1964年(昭和39年)、三井田川鉱業所は閉山。その後は新会社の新田川炭鉱が事業を引き継ぐ形で操業を始めたが、1969年(昭和44年)に閉山。この影響で、市内に残っていた小規模炭鉱も閉山を強いられ、1971年(昭和46年)に田川市内の炭鉱は全て閉山した。

炭鉱の閉山後、全盛期の半分近くまで人口は減少したが、産業構造の転換や住宅団地の開発などの取り組みが進められた。工業では、北九州工業地帯に近い地の利を活かして工業団地を造成。白鳥工業団地や望岳台団地などが整備され、製造業や流通業の進出が進んだ。交通面では、国道201号田川バイパスや烏尾トンネル、国道322号バイパスの整備が進み、福岡都市圏・北九州都市園へのアクセスが飛躍的に向上。医療・福祉では、1992年に医療・福祉の人材の育成を目指し、伊田地区に福岡県立大学が設立された。
近年では、田川市石炭・歴史博物館が所蔵している山本作兵衛の炭鉱記録画がユネスコ記憶遺産に登録され、観光客も増えている。

1943年11月3日 - 田川郡伊田町・後藤寺町が新設合併し、田川市が発足。
1955年1月1日 - 猪位金村(猪国の一部を除く)を編入。

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Quelle: Text: Wikipedia – „田川市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Muyo, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons