新城市: 歴史
古くから人の活動が見られ、建長寺などから旧石器時代の石器が発掘されている。平安時代には郡司の藤原季兼と熱田神宮の尾張氏出身の尾張職子(松御前)が稲木に住み、設楽荘、宇利荘ができる。室町時代に、富永直郷が野田館を拠点に一帯を支配をするようになり、富永荘と呼ばれるようになる。作手では、上野国(群馬県)から来た奥平貞俊が亀山城を築いた。
戦国時代、山家三方衆の奥平氏や菅沼氏が、亀山城や長篠城を拠点に支配した。戦国期の1561年(永禄4年)6月29日、松平元康が菅沼定氏に与えた判物写に「新城・田嶺・武節三所……一所城代可申付之事」とある(譜牒余録/岡崎市史6)。1574年(天正2年)11月の永住寺追鐘銘には「三州設楽郡新城村」と見える(古鐘銘集成)。同9年3月7日の竜沢寺勧化帳写によれば、「三州新代」の英寿寺は竜沢寺へ1貫文勧進している(竜沢寺文書/福井県史資料編4)となっており、新城市のホームページに記載される由来以前に、新城と呼ばれている。
1571年(元亀2年)、武田信玄により、徳川家康攻略のための拠点として古宮城が築かれる。1573年(元亀4年)には野田城の戦いで菅沼氏の野田城が武田信玄に奪われた。この頃に、武田氏の傘下であった亀山城の奥平氏が、信玄の死を確信して離反し、徳川家康の側に移ったとされる。信玄の死後、長篠城は徳川家康に奪われ、奥平信昌が入った。1575年(天正3年)の長篠の戦いでは、織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破った。1576年(天正4年)、奥平信昌が、長篠の戦いで損傷した長篠城を廃城し、新城城(現在の新城小学校周辺)に移転築城した。
江戸時代においては市域の北部(旧設楽郡)は主に交代寄合菅沼氏の領地や作手藩、市域の南部(旧八名郡)は、主に定府大名安部氏の武蔵国岡部藩の領地であった。新城は伊那街道を下ってきた馬による陸運と豊川を上ってきた海運が接合する場となり、その様は「山湊馬浪(さんそうばろう)」と称された。1868年(慶応4年)明治新政府方についた安部氏は、陣屋を当時の半原村(現新城市富岡)に移して、半原藩を発足させたが、すぐに版籍奉還となった。1871年(明治4年)の廃藩置県では、半原村に半原藩改め半原県の県庁が置かれたが、額田県との合併を経て愛知県に編入された。
明治、大正時代は、南設楽郡役所が新城町(新城駅周辺)、八名郡役所が富岡村(1906年に合併により八名村)に置かれ、2つの郡の中枢地となった。大正の郡制廃止後、太平洋戦争中、南設楽郡新城町に南設楽郡と八名郡を管轄する八楽(はちらく)地方事務所が置かれ、南設楽郡と八名郡は新城町に中枢が統一された。
1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行により、南設楽郡新城町が発足する。
1955年(昭和30年)4月15日 - 南設楽郡新城町、東郷村、千郷村、八名郡八名村、舟着村が新設合併し、新城町となる。
1955年(昭和31年)9月30日 - 旧舟着村のうち乗本を鳳来町に編入し、鳳来町から横山の大部分(字北山を除く)と布里の一部(字七久保)を編入する。
1958年(昭和33年)11月1日 - 市制を施行して新城市となる。
1968年(昭和43年)10月5日 - 合併10周年を記念して「新城市歌」を制定。
2005年(平成17年)10月1日 - 新城市、南設楽郡鳳来町、南設楽郡作手村が新設合併し、新しい新城市となる。これにより、南設楽郡が消滅。
2025年(令和7年)10月4日 - 新設合併20周年を記念して新市歌「きらめけ☆しんしろ」を制定。
== 行政 ==
市長:下江洋行(2021年11月13日就任)
行政区域は大字を基本とし、xx町の名称は町名として原則使用していない(但し、栄町、中町、本町、東新町の通称地名が存在)。なお、大字の呼称は旧新城市、旧鳳来町では発足時より削除している。
1955年までの旧新城町域に大字は設定されず、住所は新城市字xxとなる。
旧新城市域には区画整理による新地名(城北、緑ヶ丘、市場台)も存在する。
旧作手村域は、新城市作手xxとなった。
旧鳳来町域は、旧鳳来町の大字がそのまま新城市の大字となった。
新城合同庁舎(字石名号)
東三河総局 新城設楽振興事務所
東三河県税事務所 新城駐在室
新城設楽農林水産事務所 農業改良普及課新城駐在室
東三河教育事務所 新城設楽支所
新城保健合同庁舎(字中野)
新城保健所
新城設楽福祉相談センター
新城設楽建設事務所(片山字西野畑)
新城設楽農林水産事務所 新城林務課(市役所に同居)
東部家畜保健衛生所 新城設楽支所(野田字上市場)
県有林事務所 鳳来業務課(門谷字鳳来寺)
森林・林業技術センター(上吉田字乙新多)