北杜市: 歴史
=== 古代 ===
当市の大部分の区域はかつて、甲斐国巨摩郡逸見筋(へみすじ)に属していた。
逸見の地は古代より良馬の産地として知られており、逸見牧(へみのまき)と呼ばれる牧が存在していた。
この地に赴いた源清光は「逸見」の名を冠し、「逸見清光」を名乗った。
戦国時代
戦国時代には武田氏の信濃侵攻における拠点となり、軍用道路として整備されたと言われる棒道と伝わる自然道が長坂町 - 小淵沢町にある。
1540年(天文9年)武田信玄の妹である禰々御料人が諏訪氏に嫁ぐ際、諏訪郡との境に位置する18村(現在は諏訪郡富士見町に属する、葛窪、先達、田端、蔦木など)が化粧料として持参され、それによって信濃国との国境が現在の甲六川に変更されたといわれている。(立場川の項目も参照)
明治時代
山梨県の発足及び巨摩郡の分割により、山梨県北巨摩郡に属することになった。
「逸見筋」の名前は公式には使用されなくなり、「甲斐(峡)の北部」という意味の「峡北」という言葉が使われるようになる。
峡北という名称は北杜市成立まで、北巨摩郡と韮崎市の総称として広く用いられた。逸見筋という呼称は明治初期にはまだ住民の間に残っていたようで、請願書などに「甲斐国山梨県北巨摩郡逸見筋○○村」といったような表記が用いられていた例が散見される。
明治の終わりに中央本線が開通した。その際日本で初めての公害訴訟となる、信玄公旗掛松事件が起こった。
終戦直後の食糧難、引揚者の生計確保といった目的で、大東豊・篠原・女取(小淵沢町)、小泉・蕪(長坂町)、大開・大泉帰農・泉原・石堂・油川(大泉村)、清里(高根町)などの八ヶ岳南麓をはじめとする高原地帯に入植が行われた。
1947年(昭和22年)10月14日、山梨県に昭和天皇の戦後巡幸が行われた。この際、予定になかった天皇と開拓帰農者との交流が企画され、小淵沢駅にお召し列車が停車した際に、天皇が下車して地域の開拓の代表者に労わりの言葉をかけることがあった。
しかし開拓者の生活は厳しく、離農者が後を絶たなかった。
その後国民生活が安定してくると、開拓地では酪農や高原野菜の栽培などが行われるようになり、さらにはペンションなど高原観光も進展し、今では当市の経済を支える重要な位置を占めるようになった。
平成
2004年(平成16年)11月1日 - 北巨摩郡須玉町・長坂町・白州町・高根町・大泉村・武川村・明野村が合併して北杜市が発足。
2006年(平成18年)3月15日 - 北巨摩郡小淵沢町を編入。北巨摩郡が廃止された。