Heimatgeschichte · Kobayashi ·

小林市: 歴史

小林市: 歴史

当初は「夷守(ひなもり)」の名で呼ばれていた。これは夷敵を討つための兵の軍役所があったことに由来する。
源平合戦(治承・寿永の乱)の頃に三山城が完成するとその城を中心として政が行われるようになり、地名も「三山」へと変化し真幸院の中に組み込まれる。日下部氏による統治を経て、200年近く北原氏により統治されてきたが、永禄年間に北原氏の領地は家督問題に干渉してきた伊東義祐により横奪される。しかし、北原旧臣が御家再興を企図し、その願いに応じた島津貴久・北郷時久が領地奪還を支援したことで伊東氏の追い出しに成功。再び北原の領有に帰したが、北原家中の内訌により再び伊東が占領し返すなど混迷の十数年を送る。
元亀3年(1572年)、島津氏が木崎原の戦いで伊東氏に勝利する。以降、伊東の支配体制は大幅に弱体化し、 天正4年(1576年)に小林村の小林城が離反により島津氏に帰すると、小林城を中心とした治世が行われるようになり、地名も「小林」となり、以後は幕藩体制の終焉まで島津氏の治めるところとなる。
元和元年(1615年)に一国一城令が発せられると、薩摩藩の外城制に伴い、上の馬場に地頭仮屋を設けてそこを治所とした。小林は大・中・小の郷村の区分けの内の大郷となり、小林村・細野村・十日町村・温水村・堤分村・真方村・水流迫村・大豆別府村・北方村・西方村の11ヶ村に分かれた。後に村の改廃が行われたものか、小林村・細野村・堤村・真方村・水流迫村・東方村・北西方村の7ヶ村と、十日町と五日町の野町2ヶ所が置かれた。
延宝2年(1674年)、開田の中でも大規模なものが行われ、上細野および宝光院用水路開設による下細野の水田が開墾される。これにより細野は「細野3千石」と称される穀倉地帯となった。
1871年(明治4年)7月、 廃藩置県により鹿児島県に編入。同年11月に都城県に移るも、都城県が廃止され新設された宮崎県に編入される。しかし、1876年(明治9年)にその宮崎県も廃止されると再び鹿児島県に編入され諸県郡となる。しかし県庁が遠隔地となったことに伴う不便さから1880年(明治13年)に分県運動が起こり、1883年(明治16年)5月に再び宮崎県が再置されると、小林は宮崎県・北諸県郡の管轄となる。その翌年に北諸県郡が東・西・北に分けられ、西諸県郡に属する。
1927年(昭和2年)1月28日 - 大火。約500戸が全焼。

1889年(明治22年)5月1日 - 町村制施行により、西諸県郡五日町・十日町・堤村・水流迫村・東方村・北西方村、南西方村・細野村・真方村の区域をもって小林村が発足。
1912年(大正元年)12月25日 - 町制施行し、小林町となる。
1950年(昭和25年)4月1日 - 市制施行、小林市となる。
2006年(平成18年)3月20日 - 西諸県郡須木村と新設合併し、改めて小林市が発足。
2010年(平成22年)3月23日 - 西諸県郡野尻町を編入。
なお、(旧)小林市は宮崎県の市では唯一明治の大合併以降一度も合併を経験していなかったが、2006年の合併により消滅したため、宮崎県では全ての市が合併を経験していることになった。

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Quelle: Text: Wikipedia – „小林市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Ray_go, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons