Heimatgeschichte · Kouta ·

幸田町: 歴史

幸田町: 歴史

=== 原始・古代 ===

先土器時代の遺跡は町内にはないが、岡崎市美合町の五本松遺跡があることや西尾市上羽角町で有茎尖頭器が発掘されたことから、周辺では人間の活動があったと考えられている。また、縄文時代については、東光寺遺跡などで石鏃、石棒、縄文土器や貝塚などが発掘されている。その中心は町北東部で、西側は矢作川が入り込み菱池という湖沼があったと考えられている。弥生時代になると、菱池の岸辺と考えられる周辺や東部の内陸部で水田の跡が見られる。灌漑技術の進んでいなかった弥生時代初期に菱池周辺に湿田が作られ、技術の進展とともに高力や大草といった内陸に乾田が作られていったと考えられる。
古墳時代には、古墳が菱池を挟んで東西の丘陵や台地に分布していた。東側は、菱池の東部から町北東部の坂崎・大草といった周辺に集中し、町内で唯一の前方後円墳である青塚古墳がある。一方の西側は、菱池西部から西尾市羽角・野場などにかけて集中し、丸山古墳がある。このことから、菱池を挟んで2つの農業共同体があったと考えられる。また、坂崎、大草、深溝、野場六栗、須美の5ヶ所で古墳時代後期に見られた群集墳の存在が確認されている。
律令制下、町域は三河国額田郡となった。『和名類聚抄』には、額田郡には7つの郷と1つの駅家があったと書かれているが、町内と比定できる所があるか詳しいことは分かっていない。また、荘園の存在を裏付ける史料は見つかっていない。そのなかで唯一確認できるものが、蘇美御厨・蘇美御薗である。これは律令制下で伊勢神宮を経済的に支えた新封戸のひとつで、町西部の須美にあたる。藤原宗忠の『中右記』によれば、角平御厨(現在の西尾市吉良町東部)の一部で、久安元年(1145年)に正式に認められ、南北朝時代の神宮領の記録では外宮領とされていたことが書かれている。

建武3年(1336年)、吉良満義が今川氏兼に三河須美保の政所職を与えた。このことから、須美は少なくとも建武3年には武家領となっていたことが分かる。また、平安時代末期から鎌倉・室町時代にかけて、町北東部の久保田を中心に17の窯が作られ、陶器が生産されていたが、室町時代に姿を消した。
戦国時代、蓮如の布教により三河では浄土真宗に改宗する寺院が増えた。町内では、大草の広福寺、菱池の西光寺が天台宗から浄土真宗に改宗している。また、三河三か寺のひとつである上宮寺の『如光弟子帳』には町内の上宮寺下の道場が4ヶ所記載されている。
寛正6年(1465年)、額田郡井口(岡崎市井ノ口町)で同郡南部の小領主が砦を築いて東海道の往来を妨害する事件が起きた。この額田郡牢人一揆には、大場・高力・芦谷といった町内の小領主も参加していた。首謀者の中山中務入道父子と大場次郎左衛門らは、伊勢貞親の被官だった松平信光と戸田宗光に討伐された。松平信光はこれを機に三河の制圧を進め、一族に所領を与えた。町内では、信光の五男・光重を祖とする大草松平家と、五井松平家初代・忠景の二男・忠定を祖とする深溝松平家が生まれた。永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆では、大草松平家の昌久や六栗の夏目次郎左衛門ほか地侍が一揆方として参加する一方、家康方には深溝松平家の伊忠はじめ、天野康景、平岩親吉、高力清長などが付いた。家康方の勝利により、大草松平家は大草の所領を没収された。

慶長9年(1604年)に行われた検地によれば、町内は額田郡・幡豆郡・宝飯郡にまたがっていたが、寛永19年(1642年)に宝飯郡域だった荻村が額田郡に編入された。また、江戸時代初期に幡豆郡野崎村・上六栗村、額田郡西脇村・北鷲田村が成立した。天正18年(1590年)の徳川家康の関東移封後、吉田城主・池田輝政の家臣である日置忠俊が荻村・深溝村を支配し、残りの村々は岡崎城主の田中吉政が支配していたが、関ヶ原の戦い後に関東に所領を持っていた家康の家臣が再び三河へ転封した。慶長期、六栗村・須美村が板倉重昌領で、荻村・逆川村が形原松平家の松平家信領、永井村・野場村が岡崎藩領、残り10ヶ村が深溝松平家の松平忠利領となった。慶長15年(1610年)に松平正綱が桐山村の領主となり、慶長17年(1612年)には松平忠利の吉田移封にともない10ヶ村が天領となるが、同年にはそのうち荻村が内藤佐七政俊の支配下となった。慶長19年(1614年)に深溝村が板倉重昌、坂崎村が大久保忠教、元和元年(1615年)に大草村が松平忠隆の領地となった。元和4年(1619年)に久保田村が、元和6年(1621年)に岩堀村・高力村・横落村が松平正綱領となり、同年には松平家信の高槻移封で逆川村と荻村が清直へ譲られた。
1624年(寛永元年)、深溝村に深溝藩が立藩し、須美村と六栗村が加わった。寛永16年(1639年)に藩主・板倉重昌の領地の一部を重直が相続し、深溝に陣屋を置いて支配した。また、1625年(寛永2年)に松平正綱が玉縄藩主となり、長嶺村と鷲田村が編入した。慶安元年(1648年)、藩主が信綱に代わると額田郡上地(現・岡崎市上地町)と幡豆郡小牧(現・西尾市吉良町小牧)に陣屋を置いてそれぞれの郡下の領地を支配した。
江戸時代、農作物は毎年のように被害に悩まされ、末期までに30ほどのため池が造成された。また、瓦や酒、油などの製造も行われた。このほか、平坂街道・深溝街道・浜街道などの街道が生まれ、交通が発達した。町域の村々には藤川宿の助郷が課せられていた。菱池では、水運や漁業が行われていたが、江戸時代以降に新田開発が進んだ。この開発にともない、漁業は衰退していき、唯一の排水路である広田川の能力低下などで周辺では水害が増えた。 …

von Fremdinhalte · Regionauts

Quelle: Text: Wikipedia – „幸田町“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Yanajin33, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons