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魚津市: 沿革・歴史

魚津市: 沿革・歴史

=== 縄文時代 ===
紀元前4000〜8000年頃(縄文時代初期)、西布施の長引野台地にある桜峠から始まる。この遺跡からは、「押型文土器」が出土。
上野地区の早月上野遺跡では、国内最大規模の縄文中期の環状集落が見つかっている。
同時代中期以降に東日本を中心に多くみられる女性を象った土偶が出土している。その他、縄文土器(火焔型土器など)、押形文土器といった土器や、東北地方や新潟県、中央高地(長野県)から持ち込まれた土器が出土している。

この頃、海岸部に群生していた杉の原生林が、片貝川の氾濫により土砂に埋もれる(この頃の海水位は現在よりも低く、当時の杉の群生は現在では海面下に位置する)。
天神山の山頂部から弥生時代末期の土器が出土しており、二世紀末の倭国大乱に関係する弥生時代の山城跡と考えられる。

印田遺跡が発達する。

701年から704年ごろより、漁業に従事する人たちが定住していて、諏訪大明神を勧請していた(諏訪大社の分霊を奉斎。後に越の大社に改称)。この頃の名称は、大道、あるいは魚堵(読みはともに「おど」)。
702年 - 魚津のある地域は越中国(ほぼ今の富山県域と一致、国府は現在の高岡市伏木)と確定する。同年、魚津神社の前身にあたる神明社が創建される。

746年(天平18年)のころ、当時の越中守大伴家持が、片貝川、早月川、信濃の浜(魚津海岸の旧称、後述)にちなんだ短歌を詠む。

863年 - 越中、越後で大地震が発生し、魚津にも影響する。

1326年 - 大洪水により片貝川の流路が大きく東へ蛇行し、独立した河川であった布施川と合流した(蛇行前は現在の吉島小学校、魚津高校、東部中学校、道下小学校付近を流れていた。当時の名残として、中川用水が現在でも存在する)。
鎌倉末期から南北朝時代、角川河口に港が完成。

1335年 松倉城や魚津城をはじめとする城群が魚津に築城。

1394年ごろ、松倉金山が発見される(後の加賀藩の重要な金の産出地)。地名の「金山谷(かなんだん)」は、武田信玄が呼んだとされる。
1486年ごろ、漁民だけでなく、商人、職人、運送人、武士なども定住するようになる。

1554年 - 天神山城が築城。
1564年 - 上杉輝虎(謙信)が魚津で蜃気楼を見る。
1569年8月 - 前年に続いて越中へ出兵し、椎名康胤を討つため大軍を率いて松倉城を百日間にわたり攻囲する(松倉城の戦い)。

1582年3月11日 - 織田信長の家臣の柴田勝家や、佐々成政、前田利家らが、当時上杉景勝の支配下であった魚津城を攻撃(魚津城の戦い)、激しい攻防の末6月3日に落城させたが、前日2日、(急報が入るのは4日以降)に本能寺の変が起こり急遽撤退、結果的に信長を殺害した明智光秀の討伐を羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に先を越されることになる。
1582年6月3日 - 魚津城が落城する。本能寺の変で上杉が奪還。それからも織田・上杉による争奪が繰り返される。のち佐々成政の肥後転封により、越中国新川郡は前田領とされ、その後も加賀藩の支配下となる。
1583年まで、松倉城(鎌倉時代に築城)が県東部の中心であった。この城の近くにできた城下町(現在の鹿熊あたり)は、後に北陸街道沿いの魚津城の周辺へ移り、現在の魚津市街の基礎となる。以降から、魚津の城下町は、新川や県東部の中心として発展していく。なお、魚津城は江戸時代はじめごろに廃城となる。
1595年 - 小津が現在の魚津に改称される(1476年という説もある)が、小津の名称は、その後も使用された。

1648年〜1651年 - 雑木林に覆われていた片貝川流域を開墾するため、高さ20m、長さ300mにわたって盛土し、その上に用水を通す事業が行われる。
1660年 - 魚津町奉行が設置される。
1671年ごろ、町名を「魚津」に統一(それまでは魚津と小津の併用であった)
1709年 - 貝原益軒による本草書『大和本草』が発刊され、中国で出版された『本草綱目』を基に、日本に初めて蜃気楼の「蜃」を表し、竜に属する「みずち」を示した。
1712年 - 寺島良安による百科辞典『和漢三才図会』が発刊され、竜に属する蜃が蜃気楼を起こすという記述、大型のハマグリである車螯(わたりがい)が蜃気楼を起こすという記述をし、車螯は別名を蜃ともいうが竜の蜃とは別種のものとして区別を示し、二種類の蜃気楼を収録した。

1780年 - 鳥山石燕の妖怪画集「今昔百鬼拾遺」が発表される。(この絵図はのちの伊勢桑名のハマグリ蜃気楼が描かれた(1797年)ものの基になった。)
1781年から1788年ごろ、『魚津古事記』が発表される。魚津の蜃気楼を見て吉兆であるとし、蜃気楼は須弥山「喜見城(きけんじょう)」として描かれ立山(りゅうさん)信仰と結合している。
1831年8月2日および1834年2月21日 - 魚津町で大火発生。
1858年4月9日 - 安政飛越地震が立山地域で発生し、魚津にも影響する。

1871年12月31日 - 廃藩置県により旧加賀藩領の礪波郡と新川郡を併せ、富山県を新川県に名称を変更するする、魚津の旧加賀藩郡代役所に県庁を設置する。
1872年9月27日 - 七尾県射水郡を編入する。旧越中国が新川県として一つの県となる。
1873年
3月 - 浜経田小学校、浦方小学校の2校創設(現在の経田小学校である。魚津市域の小学校では最初となる)。
9月6日 - 新川県庁が魚津から富山に移る。
時期不明 - 魚津第一番中学校(後の大町小学校、現在は統合によりよつば小学校)が創立。
1876年4月18日 - 新川県が石川県に編入され、魚津は石川県となる。
1878年
9月5日 - 魚津町に県内最初の電信分局が架設される。
12月17日 - 新川郡が郡区町村編制法により上新川郡及び下新川郡の分割する(後に上新川郡の区域から分立して、中新川郡が発足する)。魚津市の前身の町村は全て下新川郡に所属する。
1882年 - 友道村でニホンナシの苗木が植栽される。
1883年5月9日 - 「明治16年太政官布告第15号 富山佐賀宮崎三縣設置」により、佐賀県、宮崎県の分県とともに、旧越中国一円(越中4郡)を富山県として再び設置。魚津は富山県となる。
1889年4月1日 - 町村制の施行により、魚津町が発足する(1950年ごろは、人口密度は約15000人と非常に高かった)。
1892年 - 道下尋常小学校をはじめとして市内に多くの小学校が創立。
1899年 - 第三中学校(現在の富山県立魚津高等学校)開校
1900年 - 魚津町の貸座敷業者の道下村村木地区への強制移転問題をきっかけに、道下村の一部を魚津町へ編入することが検討されたが不調に終わる。以降幾度か周辺村との合併話が持ち上がる。
1908年11月16日 - 官設鉄道北陸線(現在のあいの風とやま鉄道線)の富山 - 魚津間延伸により魚津駅開業(一般駅)。旧仮名遣いは「うをづ」。
1909年 - 下新川郡魚津町大字金浦町に、魚津尋常小学校(現在の村木小学校)が創立。

1913年9月1日 - 一府八県連合共進会の第2会場として下新川郡魚津町大町(現・魚津市新角川)に初代魚津水族館創設(現存する日本最古)。
1914年5月 - 魚津水族館が魚津町に払い下げられ、以来1918年 - 1930年に民間により運営していたのを除いて、ずっと町立の水族館として運営してきた。東京帝国大学の水産動物研究所も併置されており、多くの国内外の学者が訪れた。
1914年8月13日 - 嵐の際に停電となった初代魚津水族館で、世界で初めてマツカサウオの発光が発見される。
1918年7月23日 - ロシア革命に対する干渉出兵であるシベリア出兵へ日本が動く中、戦争特需を狙った売り惜しみで米価が暴騰。7月22日、疲弊していた魚津の主婦たちが魚津港から北海道への米の輸送の動きを察知し、更なる米価高騰を防ぐため、翌23日、米の船積みを中止し、住民に販売するよう嘆願した米騒動が大町で起る。騒動は連鎖的に全国へ広まり、最終的には軍により鎮圧されるが、寺内正毅内閣が退陣して原敬率いる立憲政友会内閣の誕生に至る。
1921年 - 魚津高等女学校開校(後に魚津高等学校と統合する) …

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Quelle: Text: Wikipedia – „魚津市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: Triglav, CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons