Heimatgeschichte · Nakama ·

中間市: 歴史

中間市: 歴史

=== 中間市の成り立ち ===
中間市域は肥沃な遠賀平野に位置していることから古代より稲作の盛んな地域であり、遠賀川式土器など弥生時代の農耕文化を伝える遺物が多数出土している。垣生丘陵周辺には古墳時代後期に作られたと見られる横穴式の群集墓(垣生羅漢百穴:県指定史跡)が多数見られ、この地に有力な豪族がいたことを伺わせる。また、当初宗像郡宗像郷に属し、宗像郡の中心部であったが、遠賀郡が宗像郡から分郡されて誕生したため遠賀郡宗像郷に属すこととなった。
中間市域は鎌倉時代から室町時代にかけて筑前国山鹿城(芦屋町山鹿)を本拠とする豪族麻生氏の所領となり、現在の月瀬八幡宮(上底井野)がある丘陵に猫城という出城が築かれた。その後宗像大宮司宗像氏との勢力争いに敗れた麻生氏は、1578年(天正6年)宗像氏に川西地区を割譲して従属し、猫城には宗像氏家臣吉田倫行が配属された。1580年(天正8年)5月、豊後大友氏の命を受けた筑前国鷹取山城(直方市頓野)毛利鎮実が猫城に攻め寄せるが、宗像勢はこれを撃退している。宗像氏断絶後は、小早川氏が支配した。
江戸時代には黒田藩の所領となり、1621年(元和7年)には度々氾濫していた遠賀川の治水のため遠賀川と洞海湾とを結ぶ運河開削工事が始まった。この運河は堀川と呼ばれ、1762年(宝暦12年)に完成してからは遠賀川一帯の治水、利水に大きく貢献することとなる。
明治時代から昭和時代にかけて、この地で産出される石炭が近代産業を支える重要なエネルギー源として利用されるようになり、筑豊炭田から産出される石炭は遠賀川や堀川を往き来する「川ひらた(五平太船)」という小型の舟を使って輸送されていた。1891年(明治24年)に筑豊本線、1912年(明治45年)に香月線が開通すると鉄道による大量輸送が可能になり、中間は炭鉱の町として全盛を誇った。新手・大隈・岩崎などの炭坑が相次いで開発され、1914年(大正3年)には大正鉱業株式会社が事業を開始した。

戦後、様々な行政事務の見直しが進められるにあたり、基礎自治体の適正な規模も見直される動きが全国的に起こった。遠賀郡部では、まず福岡県主導により1950年(昭和25年)に中間町・水巻町・芦屋町・香月町・遠賀村・岡垣村の4町2村による人口12万超の「遠賀市」構想が計画され、関係自治体での調査研究が行われたが、1951年(昭和26年)の統一地方選挙で多くの町村長・議会議員が改選を迎えたため、この構想は自然消滅となった。次いで1952年(昭和27年)には、前回の4町2村に加えて八幡市・若松市・戸畑市の3市も含めた50万人超の「大遠賀市」構想が再燃し、世論調査も行われたが、今回も合併には至らず立ち消えとなった。なお、1955年(昭和30年)に香月町は八幡市に編入されている。更に1957年(昭和32年)、遠賀川の水利権と住宅適地を求めていた八幡市は、議員団を中間町に派遣して視察を行い、遠賀郡を含めた合併により大八幡市の建設を呼びかけた。しかし大きな市の辺地となることを恐れた郡部各町村の反応は悪く、それぞれ単独での市制・町制施行に向けた動きへと変わっていった。
地方自治法上の市となるべき人口要件は5万人以上であるが、1958年(昭和33年)4月の法律改正による特例措置により、同年9月30日までに申請のあったものについては人口3万人以上をもって市となることを認めるとされた。そこで急遽市議会内において市制調査特別委員会を設置してその可否を研究した結果、「市制施行すべき」との答申が行われ、9月末の期限直前に福岡県知事宛ての市制申請書が提出された。市制申請書は県を通じて総理府に提出され、11月1日をもって県下20番目の市となることを許可された。

一方、この頃から始まった「エネルギー革命」によって石炭の需要は激減し、その結果石炭産業に依存していた中間市は大きな打撃を受け、1964年(昭和39年)12月の大正鉱業株式会社を最後に市内の炭坑は全て閉山し、この頃の市の人口は34,000人を割るほどにまで落ち込んだ。この頃の市債(市の借金)のほとんどは教育債であり、ベビーブームに対応するため昭和20年代後半から30年代前半にかけて建設が続いた小中学校の新改築費の影響が重くのしかかってきていることがうかがえるが、昭和30年代後半になると、炭坑閉山による失業者・生活保護世帯の増加及び経営難に陥った炭鉱企業各社の市税滞納により市財政の収支は急速に悪化し、1962年(昭和37年)末には資金不足に陥り財政再建準用団体の指定を受けることになった。
6か年度にわたる財政再建計画に基づいて緊縮財政を行った結果、1968年(昭和43年)3月末で財政再建準用団体の指定を解除することができたが、歳入増を目指して行った数々の大規模開発に絡む利権は公共事業をめぐる汚職の温床となり、1966年(昭和41年)11月から翌年1月にかけて、当時の添田八尾亀市長をはじめとする市の幹部が相次いで贈収賄容疑によって逮捕されるという事件が起こった。市長は容疑を否認し続け、1967年(昭和42年)4月の統一地方選挙で有権者の判断を仰いだ結果、僅差で辛くも再選を果たした。
昭和30年代後半から40年代にかけて、中間市は炭鉱の町から脱却して北九州経済圏の住宅都市としての再生を目指し、「通谷周辺の住宅団地化」「大正鉱業跡地の再開発」「川西地域の工業団地化」を3つの柱に掲げた。通谷を中心とする筑豊電気鉄道沿線の住宅団地開発は1961年(昭和36年)から手がけられ、1964年(昭和39年)には松ケ岡県営住宅が完成し、中鶴の大正鉱業跡地については1969年(昭和44年)から市営・県営・住宅公団による住宅建設が行われた。川西地域の工場団地化については、1963年(昭和38年)に産炭地域振興事業団が中底井野と遠賀村にまたがる虫生津の地に工場団地を造成し、一方1967年(昭和42年)には中間市が上底井野の五楽に工場団地を造成した。
1971年(昭和46年)4月に市長選が行われ、緊縮財政を掲げる新人の岡部丘雄が開発推進派で現職の添田八尾亀を破って中間市第2代目の市長となった。しかし就任直後の同年5月、市民課窓口で対応していた市職員が市民に差別発言をしたということで部落解放同盟中間支部からの糾弾を受け、部落解放対策室を設けることや同和住宅・保育所など総額30億に及ぶ施設等の整備を盛り込んだ覚書に市長は同意し、その覚書に基づいて1972年(昭和47年)、「解放保育所」と「部落解放会館(隣保館)」がオープンした。

1975年(昭和50年)4月に行われた市長選によって添田八尾亀が再び市長に返り咲くと、「コミュニティづくり政策」を掲げて施設整備を推進し、1978年(昭和53年)1月に屋島庭球場、5月に中央公民館、6月に市立病院(改築)、7月に市営野球場、11月に体育文化センター、翌1979年(昭和54年)4月に勤労青少年ホーム(現子育て支援センター)および弓道場、1980年(昭和55年)6月に働く婦人の家と、公共施設が立て続けに新築(改築)された。
また、添田市長は消費人口の市外流出を食い止めるため、田中六助衆議院議員の仲介でダイエーの中内㓛社長と接触し、人口増加の著しい通谷地区への大規模スーパー誘致を要望した。地元商店街の反発があったものの、ダイエー側は専門店街に隣接した用地を地元商業者用の出店用地(グリーンプラザ商店街)として確保することを条件として提示することにより合意を図り、1978年(昭和53年)9月に「ダイエー中間店」がオープンした。市内に核となる大型ショッピングセンターが進出したことは、消費人口の市外流出阻止に一定の効果が見られたが、この年を境に地元商店街の衰退は急速に進むこととなった。
相次ぐ公共施設の建設は当然市の財政を圧迫し、昭和50年代中頃には再び財政再建準用団体に転落する寸前となったが、昭和40年代に行った住環境整備政策の成果がようやく現れてきて、人口の増加に伴う市税収入の改善により辛うじて持ち直すことができた。ただし、単年度赤字については解消されたものの、この頃の建設ラッシュにより膨らんだ市債(借金)の償還にあてられる公債費の比率が上昇したことは、その後も中間市の財政を硬直化させる原因となった。 …

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Quelle: Text: Wikipedia – „中間市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: そらみみ, CC BY-SA 4.0 – Wikimedia Commons