蟹江町: 歴史
=== 蟹江町の発足 ===
1888年4月25日に、明治政府により市制町村制が公布された。元号が明治に変わったのは1868年だが、それから20年が経過した当時、明治政府は国内体制を整備し、ヨーロッパのような近代的な地方自治制度を行うだけの資金力、それを支えるための人口を目指し始めた。
そのような時代に、1889年10月1日、愛知県によって市制町村制が施行された。これにより、蟹江町区域には蟹江町、新蟹江村、千秋村、西之森村、須成村の5町村が成立した。蟹江町は蟹江本町村、蟹江新町村、今村、西福田村の一部の合併により誕生した。新蟹江村は蟹江新田の一部と鍋蓋新田が合併し、千秋村は蟹江新田の一部と善太新田と大野村が合併してできた。また、西之森村と須成村は、江戸時代からの村域がそのまま引き継がれ、誕生した。
海部地域全体でみると、町村制施行以前は244も存在した村々が56町村までに減少し、その中でも町制を敷いたのは津島町と蟹江町のみであった。町村制施行翌年の蟹江町の人口は6236名に上り、海部地域では津島町に次ぐ2番目、愛知県下でも15番目の人口規模を誇った。また、明治期を通して蟹江町に警察分署、郵便局、電信局、高等小学校、銀行、駅が次々と設置されたことで大いに繁栄した。
1905年に愛知県は日露戦争によって財政難に陥り、小規模な自治体への補助金支出に苦慮していた。この時、愛知県下の町村数は全国府県の中で最多であり、1つの自治体あたりの人口は3番目に少なかった。こうした中で、愛知県は合併要領を示し、合併後の町村の平均戸数を1千戸、人口を5千人以上とすることを目指した。
そして1906年に、蟹江町は須成村、西ノ森村、新蟹江村と合併した。これにより蟹江町の人口は1万人を超し、1908年の統計では県内265町村のうち、16番目に人口の多い自治体となった。当時の海部地域における自治体の平均人口は約6千人であったことから、蟹江町はそれらの2倍近くの人口を有していた。
また、1913年7月1日には木曽川の支流である佐屋川に隔てられていた海東郡、海西郡が合併して海部郡が誕生した。
第二次世界大戦後、地方自治法の制定後に、各自治体では住民の生活環境や社会施設の充実が図られていった。1946年から学校制度改革による新制中学校の建設、1947年には旧警察法と消防組織法により、自治体警察と消防署の設置が行われると、財政規模の小さな自治体は運営困難になりつつあった。そこで打ち出されたのが、1953年の町村合併促進法と1956年の新市町村建設促進法であった。これらの法は各自治体の財政力や行政力を高めるために、自治体人口を8千人以上を基準とした新市町村として再編することを目的としており、これにより1953年から1961年までの9年間で昭和の大合併と呼ばれる全国的な市町村合併が巻き起こった。
この流れの中で、1961年に蟹江町へ永和村の一部を編入し、現在の蟹江町域が形作られた。永和村は学区問題のために4地区に分割され、津島市、旧佐屋町、旧十四山村にもそれぞれ編入された。海部地域全体では昭和の大合併の期間中に計9件の合併(神守村が津島市に編入合併、佐屋村と市江村の一部が合併、弥富町と鍋田村、市江村の残部が合併、富田町と南陽町が名古屋市へ編入合併、永和村が海部地域各自治体へ分割編入)が実現した。その後も何回かの変遷を通して、昭和の終わりには蟹江町のほか、津島市、弥富町、甚目寺町、佐織町、佐屋町、美和町、七宝町、大治町、十四山村、飛島村、立田村、八開村の1市8町4村に減少した。
平成時代に入り、経済成長の停滞や人口減少、少子高齢化などの社会問題に加え、国や地方財政の悪化、多種多様化する住民サービスへの対応など市町村を取り巻く環境は一層厳しさを増した。こうした社会状況の中、国は1999年以来、全国的な市町村合併を推進した。
蟹江町も2002年から弥富町、十四山村、飛島村との4町村合併に向けた協議を進めたものの、翌年に飛島村が離脱した。残る3町村による合併協議会を設置したが、結局合併には至らなかった。その後、海部地域では、2005年に愛西市、2006年に弥富市、2010年にあま市が誕生し、平成の終わりには蟹江町のほか津島市、愛西市、弥富市、あま市、大治町、飛島村の4市2町1村に減少した。
明治、昭和、大正、平成の時代を通して各自治体が大きく変化する中、蟹江町は単独町制を維持し、2019年10月1日、町制施行130周年を迎えた。市制町村制が施行された1889年から当時の市町村形態を変わらずに維持している愛知県下の自治体は、蟹江町、名古屋市、海部郡飛島村、北設楽郡豊根村の4自治体のみである。 …