Heimatgeschichte · Isumi ·

いすみ市: 歴史

いすみ市: 歴史

=== 概略 ===

古代の当地域は伊甚国と呼ばれていた。『日本書紀』安閑天皇元年(534年)の条には、伊甚国の国造の伊甚稚子の真珠献上が遅れ尋問のため都に上った国造が春日皇后の寝殿に逃げ込んだが、その罪を免れるため自らの領地を献上し伊甚屯倉となったという記事がある。この時の真珠はアワビの中に出来る真珠と考えられ、当地域から大和朝廷にアワビや真珠などの海産物を献上していたと推測される。また、『類聚国史』弘仁7年(816年)8月23日の条には、夷灊郡衙の諸施設で火災が発生し、正倉60棟が焼け落ちたという記載があるが、この正倉の数は他の郡衙に比べて極めて多い。これらのことから当地域は古代から海産物や農産物が豊富であり、朝廷にとっても重要な地域であったと考えられる。

鎌倉時代末、禅僧として有名な夢窓疎石がこの地で隠棲生活を送った。夢窓疎石は建治元年(1275年)に伊勢国に生まれ、その後甲斐国に移り、9歳で出家、20歳で禅宗に入門し夢窓疎石と名乗り行脚に出て、全国各地を遍歴した。疎石は後醍醐天皇など7代の天皇・上皇から帰依を受け国師号を賜り、足利尊氏・直義兄弟ら時の権力者からも帰依を受けるなど当時を代表する名僧となり、鎌倉瑞泉寺、甲斐恵林寺、京都天龍寺などを開山する。また、作庭家としても有名で、開山した寺院以外にも、京都西芳寺などの庭を作庭している。元亨3年(1323年)1月、横須賀の泊船庵から千町荘能実(いすみ市能実)の退耕庵に移り住み、正中2年(1325年)の秋、後醍醐天皇に請われ京都南禅寺の住持となるまでの約2年半、この地で隠棲生活を送る。長い修行の終着地が退耕庵だったと言える。現在も疎石が修行のため籠ったとされる坐禅窟(県指定史跡)が残り、奥壁には、疎石が自ら刻んだとされる「金毛窟」の刻銘が確認される。坐禅窟の前方には太高寺があり、疎石のものとされる袈裟2領(県指定文化財)が伝わっている。「能実」という地名は疎石が、この地に稲が能く実るようにという思いを込めて付けたと伝わる。
戦国期になると、上総土岐氏が当地域を支配するが、その領域は現在のいすみ市域とほぼ重なる。土岐氏の勢力は決して大きく無かったが、県内でも屈指の中世城郭万喜城を築き、庁南武田氏、安房の里見氏、正木氏をはじめとする周辺の勢力と渡り合った。土岐氏は土岐為頼が当主の頃に最盛期を迎え、万喜城を拠点に夷隅川流域に多くの支城を築き勢力を拡大していった。万喜城は夷隅川を堀の代わりにし、水運も利用でき、城を築くには絶好の立地条件にあった。
万喜城は幾度か周囲の敵に攻められたが、落城したという記録は残されていない。最終的には、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐で、為頼の子・頼春(義成)が小田原北条氏側に属したため、豊臣方に包囲されて開城したものと思われる。一時、徳川四天王の一人、本多忠勝が入城したが、大多喜城に移った後は廃城となった。

本多氏による支配では、特に本多忠朝の代に新田開発が積極的に進められた。市域の多くは大多喜藩の領地であったが、本多氏の転封後は、大多喜藩、苅谷藩をはじめ旗本領や各藩の飛地領に細分化された。著名な領主としては、岩熊村(岬町岩熊地区)を領した、遠山金四郎家が挙げられる。江戸時代の中期になると沿岸地域では地引網漁が盛んになり、賑わうようになった。それを裏付けるように、大原から岬地域周辺の寺社には多くの大漁絵馬が奉納されている。この頃には五穀豊穣・大漁祈願をする祭礼も行われるようになり、市内でも大原はだか祭、中根六社祭、上総十二社祭などが現在にも引き継がれている。
江戸時代中期、現在の岬町長者地区では宇佐美灊水、中村国香に代表される儒学者を輩出した。中村国香は、房総各地を巡り、寺社や史跡、伝承を採録した地誌『房総志料』を編纂した。『房総志料』は、読本作家曲亭馬琴が『南総里見八犬伝』の執筆にあたり大いに参考にした。
江戸時代後期には、「波の伊八」として有名な彫刻師である武志伊八郎信由が、円熟期から晩年までの間、行元寺や飯縄寺などに傑作の欄間彫刻を彫った。なお、伊八の波の作風は、浮世絵師として著名な葛飾北斎の富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」の波の造形に影響を与えたともいわれている。

明治維新後の廃藩置県では、市域は大多喜県・花房県・宮谷県の管轄区域となったが、のちに木更津県、そして現在の千葉県となった。
明治初期の自由民権運動の広がりにより、市域でも、私塾「薫陶学舎」を創設した三島村(上布施地区)の井上幹らにより以文会が結成された。1884年(明治17年)11月の夷隅事件により官憲からの弾圧を受けたが、以文会はその後も大政翼賛会の結成まで戦前を通じて千葉県政に大きな影響を与え続けた。
房総鉄道の整備に伴い、夷隅川河口付近から大原海岸にかけては、東京方面から多くの人々が訪れる避暑地となり、別荘も建てられるようになった。
この時期多くの著名人も当地を訪れている。作家山本有三は、大原海岸の塩田川河口近くの旅館に逗留し、この周辺を舞台にした小説「真実一路」を著した。林芙美子は「放浪記」の中で、日在海岸の情景や人々との交流の様子を記している。
文豪森鷗外は夷隅川の河口近く(日在地区)に別荘を建て、「妄想」の中で周辺の光景を描写している。鷗外の別荘近くには、鷗外の親友で陸軍軍医の賀古鶴所、日活の前身であるM・パテー商会など映画事業で財を成して中国の革命家孫文の革命運動を支援した梅屋庄吉の別荘もあった。
昭和初期には国吉周辺で生産された米は「国吉米」として東京方面に出荷され高値で取引され、皇室献上米にもなった。現在でも「いすみ米」としてそのブランドは引き継がれている。 …

von Fremdinhalte · Regionauts

Quelle: Text: Wikipedia – „いすみ市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: 小石川人晃, CC BY-SA 4.0 – Wikimedia Commons