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新庄市: 歴史

新庄市: 歴史

新庄の歴史は、15世紀に新庄盆地の中央部に土豪により沼田城(新庄城)が築かれたことに始まる(新庄の名もこれに由来している)。しかし湿地帯の中にあったため中世には城として不適であり最上地方は大蔵村にあった「清水城」、真室川町にあった「鮭延城」、最上川の要衝であった本合海集落にあった「八向楯」等山城により経営されていた。戦国時代には最上義光によりその領地に編入された。
新庄市が最上地方の中心として発達を始めるのは、新庄藩が作られ羽州街道沿いにあった沼田城周辺が城下町として開発されてからである。元和8年(1622年)、戸沢氏が常州松岡(現在の茨城県高萩市)から転封。同9年(1623年)に鮭延城に入るが狭小のため、翌寛永元年(1625年)3月に新庄に城を築く。この時より、250余年に渡る戸沢氏の藩政が始まる。江戸時代を通じて戸沢氏は領国経営に熱心であり、表高6万8200石を実高8万石にまで増やすことに成功した(民謡『新庄ばやし』には「昔ゃ戸沢の8万石よ」の文句がある)。宝暦6年(1756年)、前年の大凶作に喘いだ新庄藩は5代藩主・正諶(まさのぶ)が領民に活気と希望を持たせると共に豊作祈願をするため氏神である天満宮の祭典を行った。これが今日まで続く新庄祭の始まりと伝えられる。
戊辰戦争においては、奥羽越列藩同盟を離れ新政府軍についた。明治元年7月に庄内藩の攻撃を受けて藩主・戸沢正実は秋田藩領内に逃亡し新庄城は陥落、城下町は戦火に大半が焼失した。明治元年9月に庄内藩が新政府に降伏するまでしばらく間庄内藩の管理下に置かれた。

明治4年(1871年)、廃藩置県により新庄県が設置、同9月に山形県に合併される。明治時代に奥羽本線が開通し大正時代に陸羽西線、陸羽東線が開通すると「鉄道の町」として隆盛を極め物資の集積地、養蚕の町、大日本帝国陸軍軍馬も生産する馬産地、豊富な森林資源を活用した木材加工業・家具工業の町としても知られるようになった。昭和時代初頭には近代農業の実験場として新庄市北部の広大な原野を開墾し、当時の最先端の農業技術で農耕を行う国家事業、「昭和開拓」が行われた。
太平洋戦争中には神町海軍飛行場の補助飛行場として新庄市西郊に升形飛行場(600m×30m)、竹形飛行場(800m×60m)と2つの大日本帝国海軍飛行場が存在した。市内の木材加工場では、弾薬箱の製造が行われた。アメリカ軍の空襲が1回あり、6名の犠牲者を出している。
戦後は 1947年(昭和22年)8月16日に昭和天皇の戦後巡幸があり、市内の海外引揚者の寮を慰問、開墾地(合併前の萩野村)などの視察が行われた。昼食には開墾地で収穫されたトウモロコシやカボチャが供された。昭和30年代に入ると周辺の町村を合併し、昭和40年代初頭には人口49,000人に達した。しかし、戦後の産業構造の激変により馬産、養蚕・製糸、木材加工といった産業が軒並み崩壊し農業生産も厳しい状況が続いている。鉄道も施設の合理化や自動化が進み人員削減が進んだ。そうした中で、新庄市の人口は漸減を続けているのが現状である。その一方、工場の誘致も行われており、市内には山形航空電子(日本航空電子工業の子会社)などが進出している。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、新庄小田島町、新庄沼田町、新庄五日町村、新庄十日町村、新庄金沢町村、飛田村の区域をもって最上郡新庄町が発足。
1948年(昭和23年)12月1日 - 新庄町が最上郡稲舟村を編入。
1949年(昭和24年)4月1日 - 新庄町が市制施行して新庄市となる。
1955年(昭和30年)4月1日 - 最上郡萩野村を編入。
1956年(昭和31年)9月30日 - 最上郡八向村を編入。

山形マット死事件

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Quelle: Text: Wikipedia – „新庄市“, Autorinnen und Autoren (Versionsgeschichte), CC BY-SA 4.0 · Foto: MWE (talk) 22:03, 6 October 2009 (UTC), CC BY-SA 3.0 – Wikimedia Commons